池田家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:13 UTC 版)
関ヶ原で東軍に属した池田輝政は大幅な加増を受け、播磨一国の国守となる。輝政の五男・政綱は元和元年(1615年)、兄である忠継の死により岡山藩を相続した忠雄より、母・良正院の遺領分のうち3万5000石を分知され、ここに赤穂藩が立藩した。寛永8年(1631年)、政綱は嗣子なく没し、同国佐用郡平福藩で2万5000石を領していた弟の輝興に相続が認められた。しかし、輝興は正保2年(1645年)、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である岡山藩主池田光政の預かりとなり、改易となった(「正保赤穂事件」)。
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