池田家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 08:06 UTC 版)
1600年、徳川家康によって木下家は備中足守に移され、関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田に15万石を領する池田輝政が播磨一国52万石を与えられて姫路に入封し、姫路藩が成立した。輝政が一躍3.5倍の大封を与えられたのは、その後妻が家康の愛娘督姫(北条氏直未亡人)であった縁によるが、輝政の嫡男利隆は前妻との間の息子であったため、さらに督姫の生んだ次男忠継に備前岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられた。さらに輝政の弟長吉は兄と別に因幡鳥取6万石を領していたので、池田家は徳川家の准一門として畿内近国の西縁に一家で総計100万石に近い領土を有するに至った。この雄藩池田家の居城としてふさわしいよう、播磨52万石の表高の2割打ち出し検地を行なうなどの強烈な苛政を極め、一国の総力をあげて築城されたのが国宝姫路城である。本城姫路城の他に三木城(伊木忠次)・明石城(船上城)(池田利政)・高砂城(中村正勝)・龍野城(鶏籠山城)(荒尾成房)・平福城(利神城)(池田由之)・赤穂城(加里屋城)(池田長政)を支城として配置した。 1613年、輝政が没すると、姫路藩を継いだ嫡男利隆は、次男忠継の夭折後に岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。さらに1617年、利隆が若くして没すると、嫡男光政が幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。
※この「池田家時代」の解説は、「姫路藩」の解説の一部です。
「池田家時代」を含む「姫路藩」の記事については、「姫路藩」の概要を参照ください。
- 池田家時代のページへのリンク