池田屋事件から局長批判までとは? わかりやすく解説

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池田屋事件から局長批判まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)

原田左之助」の記事における「池田屋事件から局長批判まで」の解説

元治元年6月5日新選組有名にする大きな事件発生する池田屋事件である。左之助は、井上源三郎斎藤一と共に土方歳三隊に配属された。会津藩には午後9時過ぎ集合命じられていたが、新選組会津藩との約束刻限前に祇園会所を出た近藤勇隊の10人は四条渡って木屋町通り北上し土方歳三隊は祇園界隈捜索開始する午後10時ごろ、近藤隊は池田屋突入して戦闘開始する。この時、左之助たちはまだ縄手通り捜索行っていた。そして午前0時頃、通報受けた左之助たち土方隊が池田屋駆けつけ、これにより捕縛方針切り替えた屋内での捜索が始まると、捕縛していた過激派1人が縄を解き、外に逃げ出した永倉によると、これを追って仕留めたのが左之助である。池田屋事件褒賞金リストによると、左之助は金十両充、別段金七両充を与えられている。 同年7月19日未明禁門の変が始まる。この時新選組伏見稲荷境内移動していた。砲声聞き会津藩とともに急いで御所堺町門に駆けつけたが、既に戦い終息しようとしており、新選組公卿門前警備命じられた。そこへ、公卿門前日野資宗邸に長州藩潜伏との情報もたらされたため近藤井上永倉、そして左之助に隊士20名を従わせ日野邸に向かわせた。戦い小一時間ほどかかったが、4、5人斬り倒すと残り逃げていった。この戦闘で左之助は左の肩へ軽傷を蒙った。新選組そのまま公卿門前に宿陣し翌日会津藩と共に天王山立て籠ったま真木和泉らのために出陣した新選組池田屋事件の時と同じく近藤隊と土方隊の2つ分かれたが、永倉の手記によると左之助は参加していない。 同年9月になって間もなくの事である。左之助は永倉齋藤と共に近藤の「非行五ヶ条」を公用人小森久太郎示した。この五ヶ条の内容不明である。届いた小森取り次ぐと、松平容保は左之助ら6人を居間呼び説得しその場近藤呼び出し彼らに酒を振舞って一件落着させた。左之助たちは切腹覚悟このような局長批判をしたが、結局切腹になったのは葛山武八郎のみで、左之助たち幹部謹慎という結果になった

※この「池田屋事件から局長批判まで」の解説は、「原田左之助」の解説の一部です。
「池田屋事件から局長批判まで」を含む「原田左之助」の記事については、「原田左之助」の概要を参照ください。

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