日本宣教
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「ロバート・デイヴィッドスン」の記事における「日本宣教」の解説
1873年(明治6年)神学校卒業時に、海外伝道局の宣教師になり日本に派遣された。 H・フォールズとT・A・パームと共にエディンバラの中心街のクイーン・ストリート・ホールで壮行会が行われた。航路で日本に向かい、1873年12月24日にフォールズ夫妻と一緒に神戸港に到着した。デイヴィッドスンはクリストファー・カロザースの経営する築地大学校の教師になる。日本語教師に播磨龍野藩出身の尾野重俊を雇った。尾野は1874年4月10日に洗礼を受けた。 その後で、旧沼津藩出身の三浦徹が日本語教師になり、デイヴィッドスンから洗礼を受けて、助手として働いた。 後にデイヴィッドスンは千葉県房総地方へ伝道旅行に出かけた。 デイヴィッドスンの伝道の結果、1877年(明治10年)12月8日に両国教会(現:日本基督教団永福町教会)が設立された。翌年、両国教会は日本基督一致教会東京中会に加入した。 1880年(明治13年)米国長老教会の女性宣教師キャロライン・E・エルドレッドと結婚する。
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日本宣教
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「ジョージ・ウィリアム・ノックス」の記事における「日本宣教」の解説
ノックスは1877年11月2日に夫婦で横浜に上陸して、横浜の長老教会宣教師館に滞在した。同館では、ジョン・クレッグ・バラが横浜でバラ学校と呼ばれたミッションの男子学校を経営していた。早速、ノックスが日本語勉強とともにバラ学校で英語を教えることになった。また、住吉町教会の第二仮牧師に招聘された。同年、9月17日にオランダ改革派教会とスコットランド一致長老教会および日本人教会である日本長老公会と日本基督公会が合同して、日本基督一致教会が成立していた。この団体の教職養成のために東京一致神学校が開港された。ウィリアム・インブリー、ジェームス・ランジング・アメルマン、サミュエル・グリフィリン・マクラーレンが専任教授として選ばれ、グイド・フルベッキとデイヴィッド・タムソンとミラーが就任した。 築地に転居したノックスは築地大学校の教授として2年間務め、1883年に先志学校と築地大学校が合併して東京一致英和学校になった時に、東京一致神学校の教授になった。神学校では弁証論、教理問答、説教学を教授した。ノックスは政治、社会問題、哲学、倫理学、神学時事問題などあらゆることに関心を示していた。専門の基督教弁証学以外にも新約聖書の釈義研究も根気強く組織的に分析した。また、日本の古典研究も行い、アジア協会の理事長、副理事長などを務めた。 1883年(明治16年)7月には韓国最初のプロテスタント信徒の一人である李樹廷の関係で、朝鮮の現地視察旅行にも行き、朝鮮伝道も試みた。さらに、アメリカ聖書協会のヘンリー・ルーミス宣教師と協力して、李樹廷の名前でアメリカ本国に朝鮮伝道のための宣教師の派遣を要請する。1885年メソジスト教会のH・G・アーペンゼラーとアメリカ長老派のH・G・アンダーウッドが来日する。2名の宣教師は李樹廷から朝鮮語を学び、2カ月後のイースターより韓国の仁川で伝道を開始する。 1886年(明治19年)から東京大学に招かれて、アーネスト・フェノロサの後任として、哲学と審美学の講義を行った。 在日宣教師と日本人教職者たちがミッション傘下の学校を統合して、「日本のプリンストン」を目指してクリスチャン・カレッジの創設を企画した。その実行委員の一人としてノックスが活躍した。1887年(明治20年)9月に明治学院が開校された。 1887年春にノックス一家はアメリカに一時帰国しオハイオ州で過ごした。1888年(明治21年)9月18日に日本に戻った。その年、ノックスは日本での宣教事業の功績に対して、プリンストン大学から名誉博士号を授与された。 日本基督一致協会の伝道局創設に努力した。また、同協会の教職の安川亨の人脈で、板垣退助、植木枝盛、片岡健吉らの立志社、自由党との関係が生まれたので、1884年より積極的に高知伝道を展開した。ノックス、タムソン、フルベッキ、ミラーなどが高知に派遣された。1884年11月よりノックスは高知に入り、12月末まで各地で演説会を行った。片岡健吉、坂本直寛、武市安哉、原保太郎などがノックスから洗礼を受けた。 ノックスは慶応義塾大学に1891年(明治24年)から一年間心理学の講義に出向する。1892年(明治25年)にはアメルマンが帰国したので、アメルマンの旧約聖書釈義を担当、ノックスの学問的興味は旺盛であった。しかし、インブリーが1893年(明治26年)に一時帰国すると、ノックスはついに帰国を決意し、同じ年の6月19日にアメリカに帰国した。
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日本宣教
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「クリスチャン・チャーチ」の記事における「日本宣教」の解説
E・C・フライが1897年に来日し、宮城県、岩手県、栃木県などで伝道し、教会を形成する。
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日本宣教
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1949年北米のアメリカ・カベナント教会の宣教師が来日し、東京、神奈川、群馬、新潟の各地で伝道を行い教会を形成した。 日本人による団体は日本カベナント教会(後に、日本カベナント教団)と言われた。 1952年日本聖契神学校が設立され、カベナント教会の教職養成のみならず、超教派の神学校として用いられている。 日本カベナント教団は、宣教師の団体と合同して、1967年に日本聖契キリスト教団が設立される。1964年に日本聖約キリスト教団を起こす。 これらのグループは日本福音自由教会協議会結成して、さらに同盟福音基督教会を加えて、日本自由福音教会連盟を結成している。
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日本宣教
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「スコットランド一致長老教会」の記事における「日本宣教」の解説
1868年にスコットランド一致長老教会海外伝道局総主事ハミルトン・マッギルが清国伝道と日本伝道の開始を計画する。1872年に海外伝道局における満場一致により、日本宣教が開始された。 スコットランド一致長老教会より、ヒュー・ワデル、R・Y・デイヴィッドスン、医師のヘンリー・フォールズ、エディンバラ医療宣教会からはT・A・パームが派遣された。
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日本宣教
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「ユニテリアン・ユニヴァーサリズム」の記事における「日本宣教」の解説
1890年(明治23年)アメリカの本部から、宣教師G・L・ペリンが来日して、1890年年末に東京飯田町に中央会堂を建した。中村正直らの勧告によって、宇宙神教と訳されたが、1909年(明治42年)には「日本同仁教会」と改称された。1941年に日本基督教団に吸収合併されたが、戦後離脱して、基督教同仁社団・同仁キリスト教会として活動し、幼稚園なども運営している。
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日本宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 15:56 UTC 版)
1888年10月、宣教師ジョージ・T・スミス夫妻、チャールズ・E・ガースト夫妻を最初の宣教師として日本に派遣し、秋田県を中心に伝道活動を開始。日本では、ディサイプルス派の教会は基督教会と呼ばれていた。なおスミス夫人が日本で亡くなったことを記念して、1892年に会堂(現在日本基督教団秋田教会)が建てられている。その後、宣教は東京にも広がり、聖学院などの教育伝道も行われた。しかし1941年、基督教会は日本基督教団に加わることとなり、日本におけるディサイプルス派は、消滅することとなった。 また、1900年初頭にアメリカで結成されたチャーチ・オブ・クライストも日本へ宣教師を派遣し、静岡、茨城などで伝道を行い、「キリストの教会 (無楽器派)」を創立。1949年には茨城キリスト教大学を設立した。 さらに、アメリカのディサイプルス派から分離して誕生した、保守派のクリスチャン・チャーチも日本で宣教を行っており、団体としては「キリストの教会 (有楽器派)」を設立している。また関連の神学校として、大阪聖書学院をもつ。
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日本宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 16:07 UTC 版)
1873年(明治6年)にJ・パイパー司祭が日本総書記として赴任するP・K・ファイソン司祭と共に築地の居留地でバイブル・クラスを開く。1878年(明治11年)築地52番に聖パウロ教会(現在の日本聖公会東京教区聖パウロ教会)を設立する。。 1887年(明治20年)に米国聖公会、イギリス海外福音伝道会 (SPG) 、英国聖公会宣教協会の三つの宣教団体が合同して日本聖公会を組織した。 1890年にはB・F・バックストンが来日して島根県松江市赤山に居を構え伝道活動を始める。笹尾鉄三郎など多くの日本人が集まり修養する(赤山講話)。これが、松江バンドと呼ばれ、日本のきよめ派、福音派の源流の一つになった。
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