日本官憲の関与についてとは? わかりやすく解説

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日本官憲の関与について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 10:22 UTC 版)

龍井三・一三運動」の記事における「日本官憲の関与について」の解説

孟富徳の部隊による弾圧発砲は、日本当局強要圧力によると、間島では事件当時から流布された。 現在も延辺では「日帝何の武器持たないデモ群衆銃弾鎮圧し龍井の街は血に染まった」(平・ 三一三運動記念事業会長)、「日本の警察地方軍隊が武装して血なまぐさい虐殺ひき起こした」(現地碑文)など、弾圧主謀したのは日本強調している。 延辺における「正史といえる延辺人民出版社朝鮮族簡史』では、次のように記述してている。 地方官府は日本総領事館命令の下に、この大会対す態度一変させた。日本領事館の意をうけた警官会場包囲し七十数名の軍警が局子街河南封鎖延吉大衆竜井参加するのを阻止した。(中略大会終了後民衆デモ移り日本総領事館向かい始めた先頭には大砬子「明東中学」の生徒による「忠烈隊」が立った。この勢い日本侵略者と駐屯していた孟富徳部隊何ら手を出すすべがなかった。やがて大衆衝突がおこり、大衆素手で軍や警察戦った。これに対して彼らは発泡十三人即死し三十人負傷者出た(やがて六人死亡)。 三・一反日義士陵の入口に、2014年7月15日建立され石碑では、次のように紹介している。 1919年3月13日延辺各地の3名余の群衆が、龍井市集まりデモ行進したデモ隊が「日本野郎(イルボンノム)出ていけ」などスローガン叫びながら、龍井日本総領事館向かっていた途中日本傀儡軍が、デモ隊射撃加え14名を射殺15名を負傷30名を逮捕し中外震撼させる虐殺事件引き起こした三・一反日義士陵は、その時犠牲となった14名の義士たたえるため建立された。陵墓は、西側向い2列で並んでおり、面積は約500㎡に達する。保護範囲は、碑石中心に10mから後ろ15mまで、左側20mから右側20mまで、建設制限地帯は、保護範囲の外10mまでとなっている。 韓国学中央研究院運営する韓国民族文化大百科事典では、次のように記述している。 しかし、この計画事前に探知した日本は、中国官憲協議し、孟富德が率い中国軍隊によって、独立運動阻止させた。群衆勢い削ぐことができないわかった孟富德は、先頭大韓独立旗を奪い発砲命令下し無差別射撃加え18名が現場で死亡30名余が負傷したまま解散した一方当時日本陸軍省の報告では、「支那軍隊の発砲したるは日本領事請求依るものなりとの謡言放ち盛んに人心煽動する者あり」としている。 なお、文中にある「琿春事件」は、1920年有名な琿春事件ではなく1917 年9 月守備隊派遣指している。 間島龍井に於ては3月8日以来主な不逞鮮人集会為し這般各地に於ける運動共鳴して大に気勢を挙けんことを企図多数宣言書印刷する準備中なりしか愈々13日正午之か宣言書発表し同時に龍井東北約5丁の地点に於て学生其の他多衆集合し龍井に向て行動し其の途中に於て附和雷同したる者を加へ4000名に達し太極旗を打振り市場に押寄せたるを以て支那歩兵団長孟富徳は部下を率ひて出動し制止したるも応せす遂に支那軍発砲し群衆中に死者14負傷者30出し午後3時漸く解散せるか死体傷者耶蘇教病院収容せり尚右群衆中には英人宣教師1名参加しあるを現認せる者あり右に対し一部鮮人中には支那軍隊か群衆銃殺したる件に付道尹に厳談し且吉林省北京政府電報交渉すへしと敦圉の者あり又支那軍隊の発泡したるは日本領事請求依るものなりとの謡言放ち盛に人心煽動する者あり 支那に於ては14日朝局子街より応援歩兵60龍井到着警戒しあり是先支那官憲に於ては今回韓族運動関し同地方に於て騷擾するか如きことありは曩に琿春事件如く日本軍隊か再ひ間島進入する至り12日既に道尹及孟団長連名にて韓国独立運動暴挙諭し騷擾等のことあるに於いては断然軍警の威力用ゆへし云々との諭告発し居れり(大正八年三月十五日 朝憲機第一四〇独立運動ニ関スル件 (国外第一報) 「間島方面韓族独立運動に関する経過概要」では、発砲に至るまでの経緯を、次のように説明している。 朝来龍井村居鮮人何れも門戸封鎖し市中たり。支那兵及巡警市内従来する鮮人誰何警戒厳重を極めしか正午頃至り約3、4000の鮮群衆潮の如く龍井村市街に侵入し来り。威声を揚け歳を連唱しつつ檄文配布し正義人道記した小旗振り旧韓国旗を先頭市中練り歩けり。之より先昨12日午後独立宣言代表者北京外交部上海英人牧師吉林省長宛独立宣言運動関し通牒電報を発せり。後一時群衆6000達し予定総領事館外側広場輪形集合し独立宣言発表の為、首謀者4名は其中央にありて交々演説せり。此内婦人名あり終り韓国歳を三唱し斯くて群衆市内入り示威運動をなさんとする気勢凄ましく、一同歩を進むるや、支那兵之を抑止したるに、群衆は豪も之に応する色なく、却て投石抵抗したるより、支那兵は直に群衆対し射撃し死傷者若干出せり。時に午後2時なり、然るに群衆は此射撃により、益興奮凄惨の状を極めて騒擾し、首謀者現場臨みたるに、孟軍団長に対して何故射撃したるやを難詰し、群衆之に和して猛り制止すへくも非らさるより、支那兵は再ひ射撃して之を威嚇せる結果群衆は死1431或は11、傷18とも云う)を残して四散し各部落に遁入せり。 群衆の夛くは、支那官憲行動は、日本官憲の使唆によるものとし、一派鮮人は同夜銃器整へ総領事館を襲ふへしと謡言放ち状頗る不穏なりし。(秘 朝特報第4号 大正8年3月15日 間島方面韓族独立運動に関する経過概要

※この「日本官憲の関与について」の解説は、「龍井三・一三運動」の解説の一部です。
「日本官憲の関与について」を含む「龍井三・一三運動」の記事については、「龍井三・一三運動」の概要を参照ください。

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