日本宣教師
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「デイヴィッドソン・マクドナルド」の記事における「日本宣教師」の解説
1872年(明治5年)カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会(1874年にカナダ・メソジスト教会となる)、日本伝道を決議。 1873年(明治6年)マクドナルドはジョージ・コクランと共にカナダ・ウェスレアン・メソジスト教会より宣教師として日本に派遣される。 1873年(明治6年)6月30日 横浜に上陸。G・コクランと一緒に横浜の山手に家を借り、英語と聖書を教える。その後、コクランは東京で、マクドナルドは静岡で伝道をすることになる。 1874年(明治7年) 1月12日 東京に移り築地居留地に仮寓。 4月8日 静岡県の私立英学塾の賤機舎のお雇い教師エドワード・ウォーレン・クラークの後任として招聘され英語教師として赴任した。赴任後しばらくは賤機舎の人見寧宅に住むことになった。また、教師をする傍らで医者も務めていた。 4月13日 賤機舎で英語の授業を開始。 4月19日 人見寧宅で聖書講義を開始。 7月 駿府城内の旧クラーク邸に移りそこでバイブルクラスを開く。 9月27日 賤機舎の11名の英学生【山中笑・露木誠一・村松一・三木自道・日根野弘之・諏訪昇・栗島重清・小倉烈・佐藤重道(後の佐藤顕理)・山中常慶・杉山彦六(後の土屋彦六) 】に洗礼を授けた後、組長を露木精一、山中笑を副組長として日本メソジスト静岡教会(現・日本基督教団静岡教会)を組織した。この静岡教会で洗礼を受けた人は、ほとんどが徳川静岡藩の旧幕臣であった。 マクドナルドは静岡教会を拠点にして静岡県下に伝道を開始し、清水市、沼津市、浜松市、藤枝市、島田市、川崎市、焼津市、掛川市の各地に多数の教会を生んだ。これらの伝道を従事した人材を静岡バンドと言う。代表的な人物に、山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎、高木壬太郎、中村正直、平岩愃保がいる。静岡では山中笑が彼の通訳も務めている。また、マクドナルドが静岡を去った後、賤機舎の仕事や静岡教会を引き継いだのも山中笑である。 1876年(明治9年) 9月8日 カナダ・メソジスト教会の第2陣の宣教師として、ジョージ・ミーチャムとC・S・イビーが来日する。 10月 マクドナルドの依頼でジョージ・ミーチャム宣教師が沼津市に派遣され、沼津教会発足。ミーチャムの通訳は佐藤顕理が務めた。沼津教会の初代牧師は土屋彦六、2代目牧師は山中笑である。 10月29日 屋形町1・2番地に公立静岡病院(後の静岡市立静岡病院)が開設され、顧問となる。マクドナルドは毎週火木土の午後二時から無償で診療を務めた。 1878年(明治11年) コクランと供にカナダ・メソジスト教会に婦人宣教師派遣を請願する。 3月27日 マクドナルドは静岡を離れ、一時帰国。静岡にいた4年の間に洗礼を授けた人数は129人にもなっていた。 1879年(明治12年)再来日。ミッションの議長となる。東京・築地の明石町で医療と伝道を行った。 1882年(明治15年)12月27日 カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社より派遣された婦人宣教師マーサ・カートメル、横浜に上陸。 1883年(明治16年) 夏 コクランと供に東洋英和学校の土地購入に関する懇談会を開く。その中で東洋英和女学校開設の土地購入資金の立替えをマーサ・カートメルに約束。 秋 東洋英和学校のため麻布東鳥居坂町13番地の土地を購入。 D.マクドナルド、築地教会講義所(後の鳥居坂教会)を設立。 1884年(明治17年) 10月20日 東洋英和女学校が麻布東鳥居坂町14番地に開校。マーサ・カートメルが初代校長となる。 11月1日 東洋英和学校が麻布東鳥居坂町13番地に開校。ジョージ・コクランが初代校長となる。 1889年(明治22年)日本年会(後の日本基督教団)議長就任。 1898年(明治31年)日本年会議長離任。 1904年(明治37年)8月 帰国。 1905年(明治38年)1月3日 召天。
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日本宣教師
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「ジョージ・コクラン (宣教師)」の記事における「日本宣教師」の解説
1873年(明治6年)5月 カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会(後のカナダ・メソジスト教会)よりデイヴィッドソン・マクドナルドと供に第1陣の宣教師として日本に派遣される。 1873年(明治6年)6月30日 横浜に上陸。マクドナルドと一緒に横浜の山手に家を借り、英語と聖書を教える。 1874年(明治7年) 1月4日 横浜ユニオン・チャーチで説教を行い、出席していた中村正直(同人社の創立者)と出会う。それがきっかけで東京小石川の同人社の教師となり、同人社で日曜礼拝を行うようになる。 4月 コクランの日本語教師であった牧野栄吉と家僕安富清彦に洗礼を授ける。 8月22日 同人社構内の教師館に移り住む。 12月25日 中村正直とその養子一吉に洗礼を授ける。中村はカナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になる。 1875年(明治8年)11月21日 平岩愃保とその叔父小田幸次郎に洗礼を授ける。平岩は静岡教会4代目・6代目牧師、静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立者、キリスト教界の指導者で日本メソヂスト教会第2代監督となる。 1876年(明治9年) 初頭 小田幸次郎の家(牛込築土前町)で説教場を開設。 4月 健康を害し、同人社の教師館から駿河台に移る。 9月8日 カナダ・メソジスト教会の第2陣の宣教師として、ジョージ・ミーチャムとチャールズ・イビーが来日する。コクランはこの後チャールズ・イビーと共に伝道者育成に努めることになる。 9月9日 第1陣宣教師(ジョージ・コクランとデイヴィッドソン・マクドナルド)と第2陣宣教師が駿河台のコクラン邸に集まり、部会を組織。この第一回部会で日本部会を日本メソヂスト教会と呼称することが決定した。コクランが部会長、イビーが書記に選ばれた。また、浅川 広湖・山中笑・佐藤重道の3人が教職試補に挙げられた。 11月 外国人居留地の築地明石町にある宣教師館に移る。 1878年(明治11年) マクドナルドと供にカナダ・メソジスト教会に婦人宣教師派遣を請願する。 12月29日 牛込築土前町17番地に会堂を建築し、同人社集会と小田家集会の受洗者を構成員とする牛込教会(現、頌栄教会)となる。 1879年(明治12年) カナダに帰国する。 1882年(明治15年) ビクトリア大学 (トロント大学)(英語版)より名誉神学博士号を贈られる。 1884年(明治17年) 再来日して、東洋英和学校を創立し、初代校長に就任する。また、長女スーザン・次女モードも教師として務める。そして、土屋彦六、榎本睦三、本多庸一、平岩愃保、南小柿洲吾らを育てる。 ヘブル語に堪能であったので文語訳聖書(明治元訳聖書)の旧約聖書の翻訳にも従事する。 1893年(明治26年)6月17日 病気のためにカナダに帰国する。カリフォルニア州の牧師、マクレー神学校の学部長を務める。その後、南カリフォルニア大学の神学部で教える。 1901年(明治34年)5月24日 ロサンゼルスで死去する。
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日本宣教師
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「ジョン・ニュートン (宣教師)」の記事における「日本宣教師」の解説
1888年に来日し、東京英和学校神学部の教授に就任。1889年9月関西学院の創設に関わり、神学部の教頭に就任する。しかし、1898年大病を患い、療養のため帰国する。4年間ヴァージニア州で牧会をする。1904年に再来日し、関西学院神学部の部長に就任する。1904年9月にウォフォード大学より名誉神学博士号を受ける。1916年に、関西学院院長(第三代)に就任する。
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