小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従の意味・解説 

小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従」の解説

信長死後織田政権においては織田家臣羽柴秀吉台頭し秀吉信長次男織田信雄手を結び天正11年1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦い破り勝家手を結んだ信長三男織田信孝自害させることで、さらに影響力強めた家康賤ヶ岳の戦い勝った秀吉に、戦勝祝いとして松平親宅入手した茶器初花贈った。また本能寺の変光秀加担した疑い京都から逃れてきた元関白近衛前久家康保護していたが、秀吉交渉して近衛を無事帰洛させることができた。 しかし天正壬午の乱において家康北条氏の間を仲裁した織田信雄が、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫三法師織田秀信)を推戴する秀吉対立するうになると、信雄は家康接近して秀吉対抗することとなった(『岩田氏覚書』)。 天正12年1584年3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老粛清した事件契機合戦起こり家康3月13日尾張国出兵し信雄と合流する当初、両勢は北伊勢方面出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次秀吉方の森長可撃破し羽黒の戦い)、家康28日尾張国小牧小牧山)に着陣した。 秀吉率い羽柴本隊は、尾張犬山城陥落させる楽田布陣し4月初めに森長可池田恒興らが三河国出兵した。4月9日には長久手において両軍激突し徳川軍池田勢を撃退した小牧・長久手の戦い)。「家康公の天下を取る大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた。 小牧・長久手の戦い羽柴徳川両軍全面衝突のないまま推移し一方で家康北条氏土佐国長宗我部氏遠方諸大名迎合し秀吉もこれに対して越後国の上杉氏安芸国毛利氏常陸国佐竹氏徳川氏対抗する諸勢力呼びかけ外交戦の様相呈していった。秀吉家康・信雄の双方同年9月和睦し講和条件として、家康次男於義丸結城秀康)を秀吉養子とした。 戦後和議秀吉優位であったとされる越中国佐々成政が自ら、厳冬飛騨山脈越えて浜松家康訪ね秀吉との戦い継続訴えたが、家康承諾しなかった。天正13年1585年)に入ると、紀伊国雑賀衆土佐国長宗我部元親越中国佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康迎合し諸勢力秀吉服属している。さらに秀吉7月11日関白補任され、豊臣政権確立する。 これに対して家康は、東国において武田遺領甲斐信濃含めた5か国を領有し相模国北条氏とも同盟関係築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田群馬県沼田市)の割譲に対して沼田領有していた信濃国上田城主・真田昌幸上杉氏秀吉方に帰属し抵抗した家康大久保忠世鳥居元忠平岩親吉らの軍勢派兵し上田攻めるが、昌幸の抵抗上杉氏増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。 勢力圏拡大一方で徳川氏領国では天正11年1583年)から12年1584年)にかけて地震大雨見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ徳川氏領国も「50年来の大水」に見舞われた。その状況下で北条氏豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏領国打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺歴代住持記したとされる龍門寺実記』には、天正12年小牧・長久手の戦い多く人々動員され結果田畑荒廃飢饉招いて残され老少が自ら命を絶った記している。徳川氏領国荒廃豊臣政権との戦い継続困難にし、国内立て直し迫られることになる。 家康豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月秀吉家康に対してさらなる人質差し出し求め徳川家中は酒井忠次本多忠勝豊臣政権対す強硬派石川数正融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦風聞北条氏との関係緊張生じさせていたという。同年11月13日には石川数正出奔し秀吉帰属する事件発生する。この事件徳川軍機密筒抜けになったことから、軍制刷新し武田軍見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。 天正14年1586年)に入ると秀吉織田信雄通じて家康懐柔試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求拒み続け家康に対して秀吉実妹朝日姫南明院)を正室として差し出し5月14日家康はこれを室として迎え秀吉家康義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉生母大政所朝日姫見舞いとして岡崎に送ると、24日家康浜松出立し上洛している。 家康10月26日大坂到着豊臣秀長邸に宿泊したその夜には秀吉本人家康秘かに会いにきて、改め臣従求めた。こうして家康は完全に秀吉屈することとなり、10月27日大坂城において秀吉謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉着用していた陣羽織所望し、今後秀吉陣羽織着て合戦指揮執るようなことはさせない、という意思示し諸侯の前で忠誠誓った徳川実紀)。

※この「小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従」の関連用語

小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家康 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS