常陸国と下野国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
当初、南奥州にて佐竹義重の嫡男義宣は伊達政宗と対陣していたため、身動きが取れなかった。一方下野や常陸の北条方の諸侯は皆、兵力を従えて小田原城籠城に加わることを義務付けられていたため、これらの手薄となった北条方の城は4月下旬から5月にかけて、佐竹氏を中心とする反北条氏の諸侯によって次々と陥落させられた。結城晴朝と朝勝は小山秀綱の小山城と近藤実方の榎本城を5月半ば迄に奪い、佐竹勢と宇都宮国綱や芳賀高継・多功綱継は壬生義雄が留守の鹿沼城や壬生城に4月16日に攻撃を開始し、29日に占拠した。皆川広照が留守の皆川城も開城された。しかし北条氏に屈服して数年来、宇都宮氏や佐竹氏と抗争してはいたが、もともと豊臣側と誼を通じていた皆川広照は、4月8日に小田原城を脱して包囲する豊臣側の陣所に投降していたため、皆川氏に城は返還され、徳川氏の附属として本領安堵された。 さらに義宣は宇都宮国綱らと共に兵1万を伴って豊臣方に参陣し、5月24日に、結城晴朝と多賀谷重経、5月27日に佐竹義宣と宇都宮国綱、結城朝勝らが小田原にて秀吉と面会を果たした。そのまま忍城攻めに加わり、戦後は奥州仕置などにも従った。元々豊臣氏の幕下に加わっていた上に、これらの戦功が認められ、佐竹氏は8月1日に常陸一国の采配を任された。これにより、真壁氏や戸村氏・車氏・小野崎氏など、旧国人系の勢力が正式に佐竹氏の家臣となることとなった。南常陸には反北条勢力として水戸城の江戸重通や府中城の大掾清幹がいたが、この両者はお互いを牽制し、小田原に参陣することができなかった。この両者は参陣できない件について佐竹氏に執り成しを依頼しているが、佐竹氏はこれを黙殺した。このため江戸氏と大掾氏の領土は安堵されず、同年12月、豊臣政権を後ろ盾に佐竹氏は両者を攻め落とした。佐竹氏と長年死闘を繰り広げていた北条方の小田氏治も領地を没収され、翌天正19年(1591年)2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主は、佐竹氏本拠の太田城に招かれた席で一度に謀殺された。さらに同年、江戸氏支族の抗争に乗じ、額田城の小野崎昭通を攻め、秀吉からの退城勧告を突きつけた。額田小野崎氏は下野の大関氏を頼って落ちて行き、さらに日光中禅寺に逃れ、伊達氏の庇護を得た。こうして豊臣政権を後ろ盾として佐竹氏は常陸一国を統一した。 元は岩付城主であった太田資正と資武親子は、北条氏との幾多の抗争の後、佐竹氏に客将扱いで庇護されていた。親子は秀吉に謁見し、翌年の江戸氏・大掾氏攻略にも功績を挙げたが、旧領岩付帰還は叶えられなかった。資武はのちに結城氏の招きに応じて結城家臣となった。 宇都宮仕置を経て、下野国内では小山氏や壬生氏の所領が没収された。小山秀綱は実弟の結城晴朝の下に身を寄せた。結城晴朝は11万石の所領を安堵され、結城家臣の下館城主の水谷正村や下妻城主の多賀谷重経・山川朝信らも所領を安堵され、結城氏の与力大名となった。宇都宮氏は18万石の所領を安堵されたが、最盛期よりは所領は小さくなった。前年から上方の豊臣氏に臣従していた塩谷氏も所領は安堵された。ただし秀吉からは「佐竹、宇都宮ならびに家来のものども多賀谷、水谷」に対して、不要な城を破却するように、との命が出され、領内の小城や砦が破却された。 伊達政宗に対しては浅野長政らが説得命令を続けた結果、彼我の差を鑑みた伊達氏主従は4月15日に会津黒川城を一旦出立した。政宗母親の義姫による実弟の伊達小次郎(政道)擁立および政宗毒殺未遂、政宗による政道謀殺などの話が残るのはこの時期である。順当に考えれば会津から下野国方面へ出るのが小田原への最速最短の行路であるが、戦場となっている北条領を通過することになり、仇敵佐竹氏らと出会う可能性もあるためルートを変更せねばならず、一旦黒川に帰還したのち5月9日に再度出立、米沢から小国を経て日本海側に至り、上杉景勝の所領である越後国から信濃国~甲斐国を経由して、5月27日に甲府に到達した。ここで伊達氏との取次窓口となっていたが関東平定に出陣していた浅野長政に対し、小田原に帰陣していて欲しいと連絡している。伊達氏一行は6月5日に小田原へ到着している。惣無事令違反を問われたが、蘆名氏を滅ぼしたのは親の敵討ちである、と弁明した。伊達氏は本領を安堵されたものの、宇都宮仕置や奥州仕置を経て、前年に獲得した会津すなわち旧蘆名領は没収された。
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