天正壬午の乱・徳川氏時代の谷村城
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天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍による武田領国侵攻により武田氏は滅亡し、小山田信茂は織田氏に出仕するが、処刑されたため小山田氏も滅亡する。郡内では小山田家臣や国衆の多くも撤退した。郡内を含む甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領するが、同年6月の本能寺の変により発生した一揆のため秀隆は落命する。本能寺の変により三河国の徳川家康、相模国の北条氏直、越後国の上杉景勝三者の間で武田遺領を争奪する天正壬午の乱が発生する。天正壬午の乱では徳川家康が甲斐衆の多くを懐柔する一方で、後北条氏が郡内のほぼ全域と交通路を支配した。後北条氏は北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を起き、八ヶ岳南麓・七里岩台上において徳川方と対峙するが、同年10月の徳川・北条同盟の成立により甲斐は徳川家康が領し、後北条氏は郡内からも撤兵した。後北条氏は谷村城や勝山城の改修を行っている可能性が考えられているが、それを示す史料は発見されていない。 家康は都留郡支配のため家臣の鳥居元忠を配置しているが、元忠は当初支配拠点を岩殿城においている。
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