天正壬午の乱での動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:28 UTC 版)
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、三河国の徳川家康に仕える。『寛政譜』によれば、織田家臣河尻秀隆に招かれるが、これを断って浜松城に下ったとされる。 『寛永伝』によれば、同年7月12日に囚獄佑は九一色衆を糾合し、甲斐・信濃国を結ぶ中道往還沿いの本栖城の警護を命じられている。同年6月には本能寺の変により、武田氏滅亡後には甲斐・信濃の武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生するが、天正壬午の乱において家康は中道往還を甲斐へ侵攻し、囚獄佑は家康の道中案内を務めた。家康は囚獄佑に案内され、同年8月9日に甲府・尊躰寺(甲府市城東)に到着すると、翌8月10日には本陣を甲府から新府城(韮崎市中田町中條)へ移した。囚獄佑は家康から本栖城の警護を命じられると本栖へ帰還した。同日、相模国の後北条氏の甲斐都留郡侵攻に伴い、吉田の吉田衆や西湖周辺の西之海衆ら富士北麓の御師・土豪が後北条氏に糾合され、本栖へ侵攻した。囚獄佑は家康から家臣・安部信勝を援軍として派遣され、丸尾(青木ヶ原丸尾)において後北条勢を撃退した。この戦功により旧領を安堵された上、山中の武士20人を同心として付けられて駿州往還の警固役を命じられた。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、天正壬午の乱は終結する。
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