天正の武田勝頼滅亡
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天正10年3月11日(1582年4月3日)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に加えて家臣の小山田信茂の謀反にあった甲斐国主武田勝頼が落ち延びる際に目指し、その後に妻子と共に自害したと『甲斐国志』や『信長公記』に伝えられている。 武田氏滅亡後に甲斐を領した家康は、領民懐柔政策の一環として麓に勝頼主従の菩提を弔うため景徳院を建立している。付近には武田氏関係の史跡が点在し、景徳院の境内の勝頼親子3人の墓の近くには、勝頼の妻の辞世の句が刻まれた石碑が立っている。 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒 (現代語訳:黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています。) 中央線鉄道唱歌にも次のように歌われている。「武運尽きたる武田氏が 重囲の中に陥りし 天目山は初鹿野(はじかの)の 駅より東二里の道」
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