天正の一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 20:46 UTC 版)
阿波国、特に山間部は古くから土佐国との関係が深く、早くから長宗我部元親の支配下に入っていた。ところが豊臣秀吉の四国攻めによって元親が豊臣政権に屈し、豊臣氏の重臣である蜂須賀家政に阿波国が与えられると、兵農分離と検地の徹底を図った。これに対して従来の支配権を失うことを恐れた美馬郡祖谷山・那賀郡仁宇谷・名西郡大栗山などの土豪が一揆を起こした。 家政は山間部に重臣達は勿論のこと、自らも出陣して軍事的な弾圧を図るとともに、一部の穏健派の土豪を懐柔して切り崩しを図った。特に抵抗が激しかった祖谷山では地元の喜多六郎三郎・安左衛門父子を派遣して説得にあたらせた。最終的に一揆が収束したのは、天正18年(1590年)のことである。喜多父子は祖谷山の政所に任じられ、現地の取締にあたることになった。
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