天正15年の戦いとは? わかりやすく解説

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天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)

九州平定」の記事における「天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)」の解説

宗麟は秀吉出馬何度も促した天正14年1586年12月1日秀吉小西隆佐など4人の奉行30万人分の兵粮米・馬2万分の飼料1年調達することを命じ各地より尼崎輸送させた。天正15年1587年元旦秀吉年賀祝儀の席で、九州侵攻部署諸大名伝え軍令下した以後正月25日宇喜多秀家嚆矢として、2月10日には弟秀長が、3月1日には自らも出陣した秀吉出陣に際しては、勅使公家衆織田信雄などが見送った秀吉出陣当時の戦奉行黒田孝高あて朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と記されている。肥後方面軍秀吉自身が、日向方面軍豊臣秀長率い合わせて20数え圧倒的な物量人員進軍した。なお、豊臣軍陣立は、以下の通りである。 肥後陣立((天正15年三月二十五日秀吉朱印状より) 一番隊 毛利吉成高橋元種城井朝房 二番隊 前野長康赤松広英明石則実別所重宗 三番隊 中川秀政福島正則高山長房 四番隊 細川忠興岡本良勝 五番隊 丹羽長重生駒親正 六番池田輝政林為忠稲葉貞通 七番隊 長谷川秀一青山忠元、木村重茲太田一吉 八番堀秀政村上義明 九番蒲生氏郷 十番隊 前田利家 十一番豊臣秀勝総大将 豊臣秀吉日向陣立((天正15年三月二十一日秀吉朱印状より) 一番隊 黒田孝高蜂須賀家政 二番隊 小早川隆景吉川元長 三番隊 毛利輝元 四番隊 宇喜多秀家宮部継潤因幡衆(亀井茲矩木下重堅垣屋光成南条元続五番隊 小早川秀秋番外 筒井定次溝口秀勝森忠政大友義統脇坂安治加藤嘉明九鬼嘉隆長宗我部元親) (総大将 豊臣秀長秀吉家臣である石田三成大谷吉継長束正家兵糧奉行務め兵糧確保輸送あたったまた、上方からの輸送に際して摂津尼崎港兵庫県尼崎市)が主に用いられた。 秀吉と秀長の九州同時侵攻察知した島津軍北部九州半ば放棄したため、豊臣軍瞬く間島津氏方に属していた城の多く陥落させた。島津氏は、薩摩大隅日向守り固め方針変更した唯一戦い起きなかった肥前国今の佐賀県長崎県辺りでも、九州平定軍(豊臣軍)を援護する形で鍋島直茂率いる軍が数百人出動し、戦い九州全域影響与えた

※この「天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)」の解説は、「九州平定」の解説の一部です。
「天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)」を含む「九州平定」の記事については、「九州平定」の概要を参照ください。

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