天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)
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「九州平定」の記事における「天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)」の解説
宗麟は秀吉に出馬を何度も促した。天正14年(1586年)12月1日、秀吉は小西隆佐など4人の奉行に30万人分の兵粮米・馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じ、各地より尼崎へ輸送させた。天正15年(1587年)元旦、秀吉は年賀祝儀の席で、九州侵攻の部署を諸大名に伝え、軍令を下した。以後、正月25日の宇喜多秀家を嚆矢として、2月10日には弟秀長が、3月1日には自らも出陣した。秀吉の出陣に際しては、勅使・公家衆・織田信雄などが見送った。秀吉の出陣当時の戦奉行黒田孝高あて朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と記されている。肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を豊臣秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。なお、豊臣軍の陣立は、以下の通りである。 肥後表陣立((天正15年)三月二十五日付秀吉朱印状より) 一番隊 毛利吉成、高橋元種、城井朝房 二番隊 前野長康、赤松広英、明石則実、別所重宗 三番隊 中川秀政、福島正則、高山長房 四番隊 細川忠興、岡本良勝 五番隊 丹羽長重、生駒親正 六番隊 池田輝政、林為忠、稲葉貞通 七番隊 長谷川秀一、青山忠元、木村重茲、太田一吉 八番隊 堀秀政、村上義明 九番隊 蒲生氏郷 十番隊 前田利家 十一番隊 豊臣秀勝 (総大将 豊臣秀吉) 日向表陣立((天正15年)三月二十一日付秀吉朱印状より) 一番隊 黒田孝高、蜂須賀家政 二番隊 小早川隆景、吉川元長 三番隊 毛利輝元 四番隊 宇喜多秀家、宮部継潤因幡衆(亀井茲矩、木下重堅、垣屋光成、南条元続) 五番隊 小早川秀秋 (番外 筒井定次、溝口秀勝、森忠政、大友義統、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親) (総大将 豊臣秀長) 秀吉の家臣である石田三成、大谷吉継、長束正家が兵糧奉行を務め、兵糧の確保や輸送にあたった。また、上方からの輸送に際しては摂津尼崎港(兵庫県尼崎市)が主に用いられた。 秀吉と秀長の九州同時侵攻を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄したため、豊臣軍は瞬く間に島津氏方に属していた城の多くを陥落させた。島津氏は、薩摩・大隅・日向の守りを固める方針に変更した。 唯一戦いが起きなかった肥前国今の佐賀県長崎県辺りでも、九州平定軍(豊臣軍)を援護する形で鍋島直茂率いる軍が数百人出動し、戦いは九州全域に影響与えた。
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