天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政の意味・解説 

天正18年(1590年)の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 23:30 UTC 版)

椎津城」の記事における「天正18年1590年)の戦い 北条軍白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政」の解説

天正18年1590年)、豊臣秀吉による北条氏小田原征伐の際、千葉氏始め関東諸将小田原に参陣していたが、秀吉は、空城同然房総の各城を浅野長政攻略させた。 この時、椎津城落城し、城を守っていた北条家臣白幡六郎敗走し、城から3キロ北東市原市白塚まで逃げたが、そこで討死にした。その遺体埋葬した塩煮塚は正人塚が転化したものだが、内房線鉄道敷設消滅した。 『市原郡誌』(椎津城址) 抜粋 「(略)信政今は是までとや思いけん己と城に火をかけて腹攪切りて死にたりける(中略)従是以後永禄七年に至るまで十二年が間上総路に事故なく剰へ下総大半里見方にぞくしけり云々。後木曾左馬介に守らしむ。永禄7年北條氏の収る所となり白幡六郎に守らしむ、天正18年里見氏攻め白幡六郎戦死し乗馬と共に千種村に其墳墓を存す、再びその城地里見氏帰すが後豊臣氏が取る所となり城陥る中略里見記に天文七年里見義堯の臺の戦に敗るの後上総所領多く北條帰す二十一年里見義弘眞里谷信政平かならず遂に兵を発して椎津城攻めて之を抜く信政自殺して陥る義弘兵を留めてかへる酒井家記を按ずるに曰く永禄七年里見義弘國府臺敗るるや武州岩槻城太田美濃守三樂とともに椎津城に入ると當時眞里谷氏猶ほ里見属し後畔くものか。」 『市原郡誌』(白幡六郎墳) 抜粋上総國誌稿に載す古墳の一たり、千種村大字白塚鹽煮塚に在り(上総町誌伝)、凡高一丈五尺周圍三十二間其頂老松あり、天正十八庚寅六郎椎津城に居守す、豊臣及び里見氏の兵來り攻む六郎出でて此に死す、之を葬りし所となす。按ずるに六郎椎津城白幡人正の子なり、此時隼人北條氏従い小田原城にありき。」 また、第二次国府台合戦後から小田原征伐による落城までの椎津城北条方の城将は、在竹彦四郎とする文書がある。 『御府内備考 壱』(竹橋御門) 「北條家人に在竹摂津守といへるものあり、永祿七年の臺合戦の時うち死すその子彦四郎といへり、父がうち死の忠により、上總國椎津城をたまひ、(中略)彦四郎小田原沒落の時、推津の城に於ひてうち死す。」 なお、小田原征伐の際、豊臣軍別動隊房総侵攻した時に椎津城隣接する久保田窪田)城にも、城番が在城していたことがわかる。 「房總軍記 巻の七」 天正18年1590年5月10日までには、浅野長吉長政)以下の豊臣軍別動隊2万は、土気城東金城攻略し同月20日までには下総上総諸城制圧し安房の国境まで進軍している。 「羽柴秀吉朱印状写」(難波創業録) 「一昨日十日書状十二日巳刻到来候、下總國之内とけ(土気千葉市)、東金東金市両城請取旨。得其心候事、(以下略)(天正十八年)五月十二朱印 浅野彈正長吉少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」 天正18年1590年5月12日羽柴秀吉浅野長吉長政)、木村常陸介に、10日書状酒井氏の上総国土気城千葉市緑区)・同国東金城東金市)を受け取ったとの報告了承した伝えている。 「羽柴秀吉朱印状」(浅野家文書) 「急度被仰遣候、鉢形城寄居町越後宰相上杉景勝中将加賀宰相前田利家両人取巻由、被仰出候、然(者)、此方より相越候人数、其取巻刻ハ、両人人数(与)一ツ二成、陣取以下堅申付上ニおゐて、此方より被遣候人数、又ハ佐竹(義宣)・結城(晴朝)、其外八ケ國之内諸侍、御太刀をおさめ候者共召連、何之城成とも、不相渡所於有之(者)執巻、いつれの道にも可討果儀、切々被仰遣候処ニ、こや/\(小屋/\)のはしろ(端城)共、二萬餘りの人数にて請取候事、不能分別候事、(中略鉢形の城可取巻儀、可有之候哉、景勝・利家ニ可入合申候由こそ、堅被仰出候ニ、安房國境目常陸國境目迄、彼おとり人数を召連相越、持かね候城請取候儀、天下手柄にハ成申間敷候哉、城相渡者有之ハ、鉢形城取巻候上にて、それ/\ニ上使二百三百充相そへ、人数を遣、うけ取候てこそ可然候か、敵有之所ハ差置、二計の人数を召連あるき候事、御分別無之候事、(以下略)(天正十八年)五月廿日朱印、印未詳浅野彈正長吉少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」 天正18年1590年5月20日羽柴秀吉浅野長吉長政)、木村常陸介に、前田利家上杉景勝らと合流し武蔵鉢形城攻略進めるべきところ、安房常陸の国境まで2万軍勢小城端城を落とすのにいたずらに費やしているが、天下の手柄にはならない開城申し出た場合は、鉢形城など敵が在城しているところは包囲して上使に2、300軍勢添えて派遣し、城を請け取れば済むと分別無さ譴責している。 この後直ち浅野長政等の軍勢房総から引き上げ武蔵国岩付城鉢形城転戦している。「浅野家文書天正18年7月11日小田原城北条氏政降伏切腹し北条氏滅亡した後、豊臣秀吉の命により関八州国替えとなった徳川家康は、本多忠勝等の軍を房総諸城仕置受取のために差し向け、再び房総諸城悉く城を開き落城した。「房総治乱記房総軍記」 「房總治亂記」 「同年天正十八年)七月十一日、小田原北條氏政・氏直、秀吉のために滅亡し東八州家康公に授けらる。仍りて御仕置爲に本多中務大輔忠勝、平岩主計頭親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等數萬差し向けらる。(中略さる程に三大將列を調へて下總到りぬと云ふ程こそあれ、「吾先に」と城を出で散々に落ち行きけり。佐倉東金土氣土浦相馬鹿島八幡千葉生實國府臺根古屋萬喜小濱勝浦矢竹高野、廳南、廳北、伊南伊北鶴城龜城一宮久留里以下四十八ヶ所城、皆明城となりて、城主所々逃走す。三將是に居て國中巡見す。土民是を「家康公の御威光には、一日中に五十の城落さる」と云ふ。」 「房總軍記」巻の七 房總諸城隋つて退くの事 「既に小田原城滅亡して東八ヵ國は秀吉公より家康に賜はり、政法執り行はせ給ふに依りて、「譜代家臣本多中務大輔忠勝、平岩主水正親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等、数萬の衆を率ゐて發向す」と聞えければ、(中略斯くて家康の三將、其の五萬餘騎を率ゐて、下總着陣す。(中略今は敵すべくもあらざれば、皆拔け/\になつて、「我先に」と城を開き或は山林隱れ、跡暗まし落ち退く。佐貫東金土氣土浦相馬鹿島千葉佐倉國府臺、廳南、廳北、鶴城龜城一宮久留里萬喜長南以下四十八箇所、皆同時に離散して落城にぞ及びける。世の人これを以呂波城と云ふとかや。」

※この「天正18年(1590年)の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政」の解説は、「椎津城」の解説の一部です。
「天正18年(1590年)の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政」を含む「椎津城」の記事については、「椎津城」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの椎津城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS