天正18年(1590年)の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政
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「椎津城」の記事における「天正18年(1590年)の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政」の解説
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐の際、千葉氏を始め、関東の諸将は小田原に参陣していたが、秀吉は、空城同然の房総の各城を浅野長政に攻略させた。 この時、椎津城も落城し、城を守っていた北条の家臣、白幡六郎は敗走し、城から3キロ北東の市原市白塚まで逃げたが、そこで討死にした。その遺体を埋葬した塩煮塚は正人塚が転化したものだが、内房線の鉄道敷設で消滅した。 『市原郡誌』(椎津城址) 抜粋 「(略)信政も今は是までとや思いけん己と城に火をかけて腹攪切りて死にたりける(中略)従是以後永禄七年に至るまで十二年が間上総路に事故なく剰へ下総も大半は里見方にぞくしけり云々。後木曾左馬介に守らしむ。永禄7年北條氏の収る所となり白幡六郎に守らしむ、天正18年里見氏又攻め白幡六郎は戦死し乗馬と共に千種村に其墳墓を存す、再びその城地は里見氏に帰すが後豊臣氏が取る所となり城陥る(中略)里見記に天文七年里見義堯鴻の臺の戦に敗るの後上総の所領多く北條に帰す、二十一年里見義弘、眞里谷信政平かならず遂に兵を発して椎津城を攻めて之を抜く信政自殺して城陥る、義弘兵を留めてかへる酒井家記を按ずるに曰く、永禄七年里見義弘國府臺に敗るるや武州岩槻城主太田美濃守三樂齊とともに椎津城に入ると當時眞里谷氏猶ほ里見に属し後畔くものか。」 『市原郡誌』(白幡六郎墳) 抜粋 「上総國誌稿に載する古墳の一たり、千種村大字白塚字鹽煮塚に在り(上総町村誌伝)、凡高一丈五尺周圍三十二間其頂老松あり、天正十八年庚寅六郎椎津城に居守す、豊臣及び里見氏の兵來り攻む六郎城出でて此に死す、之を葬りし所となす。按ずるに六郎は椎津城主白幡集人正の子なり、此時隼人正北條氏に従いて小田原城にありき。」 また、第二次国府台合戦後から小田原征伐による落城までの椎津城の北条方の城将は、在竹彦四郎とする文書がある。 『御府内備考 壱』(竹橋御門) 「北條の家人に在竹摂津守といへるものあり、永祿七年鴻の臺合戦の時うち死す。その子を彦四郎といへり、父がうち死の忠により、上總國椎津城をたまひ、(中略)彦四郎は小田原沒落の時、推津の城に於ひてうち死す。」 なお、小田原征伐の際、豊臣軍別動隊が房総に侵攻した時に、椎津城や隣接する久保田(窪田)城にも、城番が在城していたことがわかる。 「房總軍記 巻の七」 天正18年(1590年)5月10日までには、浅野長吉(長政)以下の豊臣軍別動隊2万は、土気城、東金城を攻略し、同月20日までには下総・上総の諸城を制圧して安房の国境まで進軍している。 「羽柴秀吉朱印状写」(難波創業録) 「一昨日十日書状今十二日巳刻到来候、下總國之内とけ(土気・千葉市)、東金(東金市)両城請取旨。得其心候事、(以下略)(天正十八年)五月十二日 朱印 浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」 天正18年(1590年)5月12日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、10日の書状で酒井氏の上総国土気城(千葉市緑区)・同国東金城(東金市)を受け取ったとの報告を了承した旨伝えている。 「羽柴秀吉朱印状」(浅野家文書) 「急度被仰遣候、鉢形城(寄居町)越後宰相(上杉景勝)中将、加賀宰相(前田利家)両人可取巻由、被仰出候、然(者)、此方より相越候人数、其取巻刻ハ、両人之人数(与)一ツ二成、陣取以下堅申付上ニおゐて、此方より被遣候人数、又ハ佐竹(義宣)・結城(晴朝)、其外八ケ國之内諸侍、御太刀をおさめ候者共召連、何之城成とも、不相渡所於有之(者)執巻、いつれの道にも可討果儀、切々被仰遣候処ニ、こや/\(小屋/\)のはしろ(端城)共、二萬餘りの人数にて請取候事、不能分別候事、(中略)鉢形の城可取巻儀、可有之候哉、景勝・利家ニ可入合申候由こそ、堅被仰出候ニ、安房國境目常陸國境目迄、彼おとり人数を召連相越、持かね候城を請取候儀、天下之手柄にハ成申間敷候哉、城相渡者有之ハ、鉢形城を取巻候上にて、それ/\ニ上使ニ 二百三百充相そへ、人数を遣、うけ取候てこそ可然候か、敵有之所ハ差置、二万計の人数を召連あるき候事、御分別無之候事、(以下略)(天正十八年)五月廿日(朱印、印未詳) 浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」 天正18年(1590年)5月20日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、前田利家、上杉景勝らと合流し、武蔵鉢形城の攻略を進めるべきところ、安房、常陸の国境まで2万の軍勢を小城端城を落とすのにいたずらに費やしているが、天下の手柄にはならない。開城申し出た場合は、鉢形城など敵が在城しているところは包囲して、上使に2、300の軍勢を添えて派遣し、城を請け取れば済むと分別の無さを譴責している。 この後、直ちに浅野長政等の軍勢は房総から引き上げ、武蔵国岩付城、鉢形城に転戦している。「浅野家文書」 天正18年7月11日に小田原城の北条氏政が降伏、切腹し、北条氏が滅亡した後、豊臣秀吉の命により関八州に国替えとなった徳川家康は、本多忠勝等の軍を房総諸城の仕置・受取のために差し向け、再び房総の諸城は悉く城を開き落城した。「房総治乱記、房総軍記」 「房總治亂記」 「同年(天正十八年)七月十一日、小田原の北條氏政・氏直、秀吉のために滅亡し、東八州を家康公に授けらる。仍りて御仕置の爲に、本多中務大輔忠勝、平岩主計頭親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等數萬を差し向けらる。(中略)さる程に、三大將列を調へて下總に到りぬと云ふ程こそあれ、「吾先に」と城を出で、散々に落ち行きけり。佐倉、東金、土氣、土浦、相馬、鹿島、八幡、千葉、生實、國府臺、根古屋、萬喜、小濱、勝浦、矢竹、高野、廳南、廳北、伊南、伊北、鶴城、龜城、一宮、久留里以下四十八ヶ所城、皆明城となりて、城主は所々に逃走す。三將是に居て國中を巡見す。土民是を「家康公の御威光には、一日の中に五十の城落さる」と云ふ。」 「房總軍記」巻の七 房總諸城隋つて退くの事 「既に小田原城滅亡して、東八ヵ國は秀吉公より家康に賜はり、政法を執り行はせ給ふに依りて、「譜代の家臣本多中務大輔忠勝、平岩主水正親吉、鳥居彦右衞門尉元忠等、数萬の衆を率ゐて發向す」と聞えければ、(中略)斯くて家康の三將、其の勢五萬餘騎を率ゐて、下總に着陣す。(中略)今は敵すべくもあらざれば、皆拔け/\になつて、「我先に」と城を開き、或は山林に隱れ、跡暗まして落ち退く。佐貫、東金、土氣、土浦、相馬、鹿島、千葉、佐倉、國府臺、廳南、廳北、鶴城、龜城、一宮、久留里、萬喜、長南以下四十八箇所、皆同時に離散して落城にぞ及びける。世の人これを以呂波城と云ふとかや。」
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