天正7年の政治状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した。 この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
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