天正10年の例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:46 UTC 版)
逆に改暦が実施されなかった例として著名なのは、天正10年(1582年)の例である。応仁の乱以後、陰陽寮及び暦道の権威は低下して各地で民間暦が作成されるようになった。ところが、天正9年(1581年)に陰陽寮が作った翌年の京暦は次の閏月を翌々年すなわち天正11年(1583年)の閏1月としたのに対して、東国で広く使われていた伊豆国の三島暦は、天正10年(1582年)に閏12月を置いたことから2種類の暦が生じることとなった。織田信長の本国尾張国の暦業者がこれに困惑して、安土城の信長に閏月を天正10年(1582年)閏12月に統一して欲しいと要請した。このため、信長は陰陽頭の土御門久脩を安土に呼び出して尾張の業者と論争をさせたところ決着が付かず、最終的に信長の判断で閏月を12月に置くように決定して朝廷に要望を行った。信長はその後、近衛前久を通じて朝廷との調整に当たらせていたが、毛利輝元討伐のために上洛した6月1日(6月20日)に再度この話を公家衆に持ち出した。このため、勧修寺晴豊は日記に「無理なる事と、各申すことなり」と記している。翌日、本能寺の変が発生して信長は横死したこともあり、この件は有耶無耶のうちに終わった。だが、このために三島暦を用いていた北条氏や上杉氏、里見氏などでは京都とは違う閏月を採用したため混乱が生じ、特に信濃国では北部の真田氏・蘆田氏が三島暦を、南部の諏訪氏・小笠原氏が京暦を採用したために、同じ令制国内で2つの月が存在するという異常事態となった。 なお、この改暦については信長が地元尾張の業者に配慮したものであるとか、朝廷を軽んじていたという解釈で片付けられる問題ではなく、京暦と同じ閏12月を設定していた民間暦の大宮暦との問題ではあるが、北条氏でも同じ領内で頒暦された三島暦と大宮暦の閏月が違うために同様の問題が浮上した際に北条氏政が算術に精通した重臣・安藤良整に再計算させたところ、京暦や大宮暦の閏12月は間違いで三島暦の閏1月が正しいとしている(『北条五代記』・『新編武蔵風土記稿』)。更に京都でも貴船神社の神託として京暦の1月を人々が無視して閏1月(三島暦の1月)に正月祝いをしたという(『御湯殿上日記』)。結果的に改暦を避けたことで朝廷・陰陽寮の権威は傷つけられることになったのであった。 天正10年の暦法については、昭和に入ってから前山仁郎が計算して桃裕行が解説したものがある(桃裕行「京暦と三島暦の日の食違いについて」)。これによれば、天正10年(1582年)12月は大余20小余6352であり、小余6300以上の年は進朔するとした宣明暦法からすれば、進朔が行われ、その結果京暦の通りに1月に閏1月を置くことになる。ところが、同時にこの方法では1月の中気である筈の雨水が閏1月に入ってしまい、中国・日本の太陽太陰暦の基本である二十四節気における「雨水を1月の中気とする」「中気の無い月を閏月とする(閏月に中気を含めてはならない)」とする基本原則が破綻してしまうことになる。三島暦は宣明暦の原則よりも暦法の根幹である二十四節気の基本原則を維持するためにあえて進朔を先送りにしてそのまま閏12月を設けたと考えられている。この暦法における矛盾は計算上80年以上に1度のケースであり、どちらも理論上は間違っているとは言えない(ただし、進朔は元来、暦学者の面目維持以上の意味はないとされており、他の暦の法則を乱してまで行うものではないとする考え方もあった)。だが、同じ国内に2つの暦が存在する事は頒暦機関である朝廷の権威を傷つける事になる。当時、統一政権を完成させていなかった織田信長は地方でまちまちである民間暦を修正させることは現実的ではないと考え、朝廷で作成している京暦を先例と同様の方法で改暦することで、頒暦機関としての朝廷の権威を守ることが出来ると判断したと見られている。
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