眞里谷信政とは? わかりやすく解説

真里谷信政(まりやつ のぶまさ) ????~1552

武田氏 三河守
◇父:真里谷丹波守信隆
 真里谷氏は房総武田氏流。父信隆は庶長子であったため、叔父信応(嫡次子)と争う。しかし、小弓公方安房里見氏味方得た信応に逐われ、信政父と共に相模・北条氏頼った1538年第1次国府台合戦後、北条氏の力で上総椎津城に戻る。その後、両勢力間において去就明らかにしなかったが、1552年北条氏通じたところ、これを知った里見氏攻められ北条氏援軍得て迎え撃つが、大敗して自刃

真里谷信政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/31 21:08 UTC 版)

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真里谷 信政(まりやつ のぶまさ、?-天文21年11月4日1552年11月19日))は、戦国時代武将房総半島を拠点とする真里谷武田家の一族。真里谷信隆の子。上総国造海城椎津城城主。娘に上杉義勝(宮原義勝)室がいる(宮原義照義久の母)。

生涯

真里谷信隆の子として生まれる。

父の家督争い

父の真里谷信隆が叔父の真里谷信応と家督を争い相模の後北条氏と結んで蜂起したときは、造海城を任され峰上城に拠った父を支援した。小弓公方足利義明の介入により劣勢になった信隆が峰上城を放棄し造海城に逃れてきたが、里見義堯が攻め寄せてきたため、百首の和歌を詠むことを条件に開城に応じ、後北条氏を頼って武蔵国に逃れたという。このとき、真里谷信政は父と行動をともにしたと思われる。

第一次国府台合戦

天文7年(1538年)、第一次国府台合戦により北条氏綱に敗れた義明が戦死すると、信応の勢力も弱まり、父の信隆は上総に復権を果たし、椎津城に拠った。まもなく、真里谷一族の内紛は再発し、後北条氏里見氏が支援を名目に上総に介入するようになり、真里谷武田家は勢力を弱めていった。

真里谷武田家の没落

天文20年(1551年)、父の真里谷信隆が死去する。1552年、後北条氏北条氏康は里見氏に対抗するため信政と万喜城土岐氏を味方にしようと画策したが、里見氏の里見義堯はこれに反発し、正木時茂に命じて信政を攻撃、土岐氏里見氏に呼応した。信政は叔父の真里谷信応の支援を得たものの敗れ、椎津城内で自刃。3日後には叔父・真里谷信応も討たれたという。これにより、真里谷武田家は没落をした。

参考

参考文献

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