真里谷信興とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > 戦国大名 > 真里谷信興の意味・解説 

真里谷信興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 02:08 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

真里谷 信興(まりやつ のぶおき、永享5年(1433年)? - 永正8年6月24日1511年7月28日))は、室町時代戦国時代の大名。上総武田氏武田信長の孫、武田信高伊豆千代丸?)の子。真里谷信勝、真里谷信清の父。真里谷城城主。別名は清嗣。通称は八郎五郎。官位は三河守。法号は道鑑。

祖父の信長は元々甲斐武田氏出身だったが、享徳の乱の混乱に乗じ、古河公方に味方し、元々上杉氏の領国であった上総に勢力を築くことに成功し、上総武田氏の祖となった。後に信長は子の信高を庁南城に置き、自身は真里谷城に孫の信興と共に拠り、真里谷家を興した。信興の事蹟は祖父信長の在世時から確認されており、1462年、『飯富宮梵鐘銘』の銘文にある「三河守清嗣」に比定されている。1464年には真如寺の開基にもなったという。

祖父と父が亡くなった後は、弟の武田道信(庁南家)と共に上総の両武田と称される存在であったという(『鎌倉大草紙』)。1479年には扇谷上杉家太田道灌千葉自胤を擁立し、千葉孝胤など古河公方側の将を討伐するため上総に侵攻し、上総武田氏も攻撃を受けた。信興は庁南家の道信と共に抵抗したものの、道灌の攻勢の前に降参を余儀なくされたが、後に道灌の勢力が衰え、自胤が武蔵に撤退し勢力を保つことができた。

永正8年(1511年)に死去。戒名は真如寺殿照堂道鑑大居士。

なお、黒田基樹は、造海城にいた武田氏信(1474年生まれ)が信長の仮名である「八郎」を継承していることから、上総武田氏の宗家を継いだ信長の嫡孫であると推定し(信高の子であるかは不明)、清嗣(信興)は信長の庶子であったとする説を唱えている。同時に清嗣が「長南城主武田殿先祖」と書かれた過去帳の存在を指摘して、庁南家も彼の子孫の可能性が高いとしている[1]

脚注

  1. ^ 黒田基樹「初期の上総武田氏をめぐって」『戦国期関東動乱と大名国衆』戎光祥出版、2021年、P162-171.(初出:『千葉史学』60号、2012年)

参考資料

  • 戦国人名辞典編集委員会 『戦国人名辞典』武田道鑑の項(嶺島英寿)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真里谷信興」の関連用語

真里谷信興のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真里谷信興のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの真里谷信興 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS