小田原征伐による落城
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「久保田城 (上総国)」の記事における「小田原征伐による落城」の解説
天正18年(1590年)の小田原征伐による豊臣軍の房総侵攻により、椎津城が落城したことから、久保田城もその際落城した(『上総町村誌』)。 なお、小田原征伐の際、豊臣軍別動隊が房総に侵攻した時に、椎津城や隣接する久保田(窪田)城にも下記の文書のとおり、城番が在城していたことがわかる。 『房總軍記 巻の七』 (小田原城落城の事) 「(略)其の外、關八州に立籠る城々は、大胡、小幡、伊勢崎、新田、倉賀野、那和、前橋、安中、小泉、箕輪、木部、臼井、免取、飯野、立林、佐野、足利、壬生、皆川、藤岡、加沼、小山、榎木、深谷、忍、川越、松山、木栖、菖蒲、岩付、羽丹生、江戸、津久居、八王寺、甘縄、新居、三崎、高野臺、鳥手、關宿、小金、布川、米本、助崎、安孫子、印西、臼井、椎津、窪田、萬喜、長南、池和田、大須賀、東金、八幡山、東野、山室、岩崎、守山、古河、土氣、成戸、小久保、土浦、相馬、木溜、江戸崎、栗橋、筧水、此の外の城々數を知らず。(中略)其の外、佐野、足利、津久井、關宿、相馬、東金を初めとし、關八州の城々、或いは攻め落とされ、又は降人となりしかば、氏政舎弟北條美濃守氏親も、韮山の城を開け渡し、徳川家康へ降人となつて出でられけり。よって今は小田原一城を、諸國の軍勢取り囲んで、攻め動すこと夥し。」 天正18年5月10日までには、浅野長吉(長政)以下の豊臣軍別動隊2万は、土気城、東金城を攻略し、同月20日までには下総・上総の諸城を制圧して安房の国境まで進軍している。 「羽柴秀吉朱印状写」(『難波創業録』) 「一昨日十日書状今十二日巳刻到来候、下總國之内とけ(土気・千葉市)、東金(東金市)両城請取旨。得其心候事、(以下略)(天正十八年)五月十二日 朱印 浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ」 天正18年5月12日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、10日の書状で酒井氏の上総国土気城(千葉市緑区)・同国東金城(東金市)を受け取ったとの報告を了承した旨伝えている。 「羽柴秀吉朱印状」(『浅野家文書』) 「急度被仰遣候、鉢形城(寄居町)越後宰相(上杉景勝)中将、加賀宰相(前田利家)両人可取巻由、被仰出候、然(者)、此方より相越候人数、其取巻刻ハ、両人之人数(与)一ツ二成、陣取以下堅申付上ニおゐて、此方より被遣候人数、又ハ佐竹(義宣)・結城(晴朝)、其外八ケ國之内諸侍、御太刀をおさめ候者共召連、何之城成とも、不相渡所於有之(者)執巻、いつれの道にも可討果儀、切々被仰遣候処ニ、こやこや(小屋々)のはしろ(端城)共、二萬餘りの人数にて請取候事、不能分別候事、(中略)鉢形の城可取巻儀、可有之候哉、景勝・利家ニ可入合申候由こそ、堅被仰出候ニ、安房國境目常陸國境目迄、彼おとり人数を召連相越、持かね候城を請取候儀、天下之手柄にハ成申間敷候哉、城相渡者有之ハ、鉢形城を取巻候上にて、それぞれニ上使ニ二百三百充相そへ、人数を遣、うけ取候てこそ可然候か、敵有之所ハ差置、二万計の人数を召連あるき候事、御分別無之候事、(以下略)(天正十八年)五月廿日(朱印、印未詳)浅野彈正(長吉)少弼とのへ 木村(一)常陸介とのへ 」 天正18年5月20日、羽柴秀吉が浅野長吉(長政)、木村常陸介に、前田利家、上杉景勝らと合流し、武蔵鉢形城の攻略を進めるべきところ、安房、常陸の国境まで2万の軍勢を小城端城を落とすのにいたずらに費やしているが、天下の手柄にはならない。開城申し出た場合は、鉢形城など敵が在城しているところは包囲して、上使に2、300の軍勢を添えて派遣し、城を請け取れば済むと分別の無さを譴責している。この後、浅野長政等の軍勢は房総から引き上げ、武蔵国岩付城、鉢形城に転戦している(『浅野家文書』)。
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