補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 23:30 UTC 版)
「椎津城」の記事における「補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦」の解説
天文21年(1552年)の「椎津合戦」で、里見氏が椎津城を落として以降、『市原郡誌』によると上述のように、椎津城には里見方の木曾左馬介が置かれ、後の第二次国府台合戦後には北条方の白幡六郎が置かれ、天正18年(1590年)の小田原征伐による落城を迎えたことになっている。 しかし、以下の史料から、天文21年(1552年)の「椎津合戦」後、北条氏と下総方面に進出する里見氏との間で何度も椎津城の争奪戦が繰り返されたことが確認できる。 (天文21年(1552年)「椎津合戦」以降の北条氏と里見氏の椎津城争奪) 永禄3年(1560年)10月14日、北条氏が当地域を本貫地とする村上氏に対して「椎津大普請」を命じる(北条家朱印状写 下総旧事 五648)。 このことから、この頃椎津城は里見氏から再び北条氏の勢力下に移っていた。 「北条家朱印状写」(下総旧事 印旛郡米本村 加茂文左衛門所蔵文書) 「不入被仰定在所之事、泉之郷(市原市以下同じ)、島之(島野)郷、町田郷、津比地(甘五里)郷、引田、麻井(浅井小向)郷、梶路(神代)郷、風戸郷、以上八ヶ郷 右八ヶ所、任所望、不入相定候、但椎津大普請矢格馬者、如定毎年可被申付候、其外随時御用之儀者、以印判可被仰付候、為無印判郡代・触口申付儀、不可有承引旨、被仰出候也、仍如件。庚申(永禄三年)十月十四日 大草左近(康盛)太夫(奉)村上民部(綱清)大輔殿」 北条氏政が村上綱清に、望みに任せて上総国泉之郷他、同国八ケ郷の知行を守護不入とし、椎津城の大普請役「矢格馬」を賦課する。奉者は大草康盛。 永禄7年(1564年)1月7日、第二次国府台合戦)で里見義弘が敗北し安房に退却後、これを追った北条氏政 方の相模の諸将及び千葉氏、原氏の軍勢は、同年2月以降、椎津城、榎本城(長柄町)、利根里城(舎人城・長南町)、池和田城(市原市)(若しくは和田城(周東城・君津市))、小糸城(秋元城・君津市)などの諸城を攻めこれを落とした(北條五代記、國府臺戦記、慶増文書、河田伸夫所蔵文書、那須文書、江馬文書) このことから、椎津城は再び里見氏のものとなっていたが、また北条氏が奪還したことがわかる。 「北條五代記」「北條五代記抄」(下總高野臺の合戦の事) 「(略)頃は永禄七年甲子正月八日申の刻に至りて、氏政軍兵近々と押し寄せ鯨波の聲どっと揚ぐ。(中略)敵方討死の衆には、正木弾正左衛門父子、(中略)、多賀越後らを初め、五千餘騎討ち取られたり。 上總の國 志ゐつ(椎津)、ゑのもと(榎ノ本)、とねり(舎人)、わた(池和田若しくは和田)、此の外城々、この勢ひに皆悉く城を開き落ち行きぬ。」 「足利義氏書状」(栃木県立博物館所蔵 那須文書) 「重而懇言上、喜入候、然者、如前々可励忠儀之段、感悦之至候、仍池和田(市原市)其外三ケ城落着、如被思召候、管要可心易候、巨細瑞雲院、可被申遺候、謹言、(永禄七年)二月十八日(足利)義氏 那須(資胤)修理大夫殿」 「北条氏康・氏政連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書) 「八日一戦勝利注進之間、則従仕場遺之、今度□前代未聞之儀候、最前敵退由申来ヲ勝利存、先衆車次々之瀬ヲ取越候、敵者大勝里見義広(弘)為始安房・上総・岩付勢、鴻台(市川市)拾五町之内備相手候、此有無不知遠山(綱景)以下、聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子(遠山綱景、隼人佑)・富永(康景)其外雑兵五十被討候、能時分ニ(北条)氏政籏本備寄候間、則押返、敵共討捕候、切所候故、(北条)氏康籏本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦令落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、則伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒(薦)野神五郎・加藤・長南、多賀蔵人を為始弐千余人討取候、太田美濃(資正)も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討取候、雖義広(弘)討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵(北条氏照)・左太父子(北条綱成・康成)・左馬介(松田憲秀)乍常兼粉骨候、新太郎(北条氏邦)事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両籏本を以切留候、此上者向小田喜(大多喜町)・左貫(富津市)可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、(永禄七年)正月八日 (北条)氏政 氏康 幻庵(北条宗哲)松田(盛秀)尾張守殿 石堂(巻)(家貞)下野守殿」 永禄9年(1566年)3月、北条氏打倒を目指して関東に出陣した上杉謙信と里見義堯・義弘らの軍勢が北条方の原胤貞の臼井城を攻めるなど、里見軍は下総まで侵攻していたが、 永禄12年(1569年)2月28日、里見義弘軍が松戸・市川に進軍後、退却の途上、臼井筋之郷村に放火し、椎津城に帰陣した。「千葉胤富書状」(豊前氏古文書抄 間宮文書) この記述から、この頃、再び椎津城は里見氏に奪取され下総進出の前線拠点となっていたことがわかる。 「千葉胤富書状写」(間宮家文書 松戸市立博物館所蔵) 「敵(里見氏)松戸・市川迄相散、去(廿六日)引退、臼井(佐倉市)筋之郷村令放火、昨日(廿八日)至于椎津退散候、此趣小田原以飛脚申届候、自其も書状被指副尤候、将亦常陸無替子細候、昨日も(小田)氏治書状被差越候、然者、薩多陣(静岡市)之様体、近日之儀如何無御心元計候、併敵近日労無極之由本懐候、恐々謹言、(永禄十二年)二月廿九日 (千葉)胤富 豊前山城守(氏景)殿」 北条方の千葉胤富が豊前山城守に、里見勢が下総国松戸から市川迄荒らし、26日に原氏の臼井方面の郷村に放火して椎津城に退散したことは小田原城に報告した。常陸方面の状況はかわらず、昨日は小田氏治から書状がきた 等と伝える。 元亀元年(1570年)6月2日の北条方の千葉胤富から一族の井田胤徳に対して宛てた書状では、敵の里見氏が上総下総西筋に侵攻し、窪田山(袖ヶ浦市)、生実(千葉市)近辺の両所に地形を見立てて城普請を推し進めている、築城を阻止するため北条氏政に使者を立てて加勢を要請するとともに、井田、原、牛尾氏に出陣を命じている(「千葉胤富書状(井田家文書)」)。椎津城付近の久保田(窪田)城が里見方に押さえられていることから、この書状からもこの時期、椎津城は里見方に属していたことがわかる。 「千葉胤富書状」(井田家文書) 「今度房衆(里見氏)窪田山(袖ヶ浦市)地利ニ取立□□□当国西筋悉可懸手扱ニ候間、地利不出来以前、雖可及一行候、遅々之内漸一両日之間ニ、可出来之由候間、不及是非候、然処ニ又生実(千葉市)近辺ニ敵地形見掛候間、窪田普請出来候者、翌日普請可打立事候、至于其儀者、一ヶ所さへ当国手詰ニ候、况両城成就候ハヽ、西筋者無論、過半敵可入手事眼前候之間、普請未熟之刻、即乗向可付是非候、(北条)氏政へも加勢之儀、所望候、原十郎(胤栄)昨日以牛尾(胤仲)如申上候、両地出来候者、何事も不可有所詮候、急速之行ニ極之由候、此時候間、人衆召連、来五日当地近辺ヘ必着陳尤候、在例式之様者、是以不可然候、為其急度被仰出候、謹言、(元亀元年)六月二日 (千葉)胤富 井田平三郎(胤徳)殿」 天正4年(1576年)、再び北条氏が上総に侵攻し土気城の酒井康治を屈伏させ、椎津城の近くに有木城 (蟻木城・市原市海士有木)を築城して配下の椎津氏を置き、下総・相模の兵を入れて守備した。これに対し、 天正5年(1577年)2月26日、里見義弘は有木城を攻略するために、上杉謙信の関東出陣を懇願した。(「里見義弘書状 吉川金蔵氏所蔵文書」、「里見義弘書状 柿崎家文書」) このことから、この前後には椎津城は再び北条氏の手に渡っていた。 「里見義弘書状 吉川金蔵氏所蔵文書」 其以後者、往還不自由故、遥々絶音問候、仍旧冬(北条) 氏政当国東西ヘ相揺、其上号有木(市原市)地取立、椎津為物主下総惣番手加、相州衆相抱候、両酒井(酒井康治・酒井政辰)も去年氏政一味候、然而 (上杉) 謙信去冬御越山相待候処、越中筋御隙故、無其儀候、当春有御越山、氏政被相押候者、両酒井并有木之地押詰、達本意度候、将亦加賀・越中・能登迄御本意之由、其聞得候、一身之太慶此事候、急速有御越山、当年中厩橋(群馬県前橋市)御在陣候付而者、上・野(上野・下野)之間、悉相調可申候間、武・相之間迄も、可有御調儀候、何篇御越山火急相極候、委旨可有彼口舌候条、令省略候、恐々謹言、(天正五年) 二月廿六日 (里見) 義弘(花押)直江 (景綱) 大和守殿 「里見義弘書状 柿崎家文書」 其以来者路次不合期之間、絶書音候、仍旧冬(北条)氏政当国へ調儀、其上号有木(市原市)地取立、椎津為物主下総惣番手加、相州衆相抱候、両酒井(酒井康治・酒井政辰)事、氏政ニ悃望、然而(上杉)謙信去冬御越山相待候処、越中筋御隙故、無其儀候、当春有御越山、氏政被相押付而者、両酒井并有木之地押詰、達本意度候、将又加賀・越中・能登迄御本意之由、其聞得候、拙夫太慶此事候、急速有御越山、当年中厩橋(群馬県前橋市)御在陣候者、野・上(下野・上野)之間、悉相随可申候間、来秋武相(武蔵・相模) 之迄も可有御調義候、火急御越山相窮候、雖委可申通路大切之間令省略候、恐々謹言、(天正五年)二月廿六日 (里見) 義弘(花押)柿崎 (景家) 和泉守殿 天正期の椎津城やその前面の久保田城は、北条氏にとって里見支配領域との境目を押さえた重要な城であったため、北条氏は、ここに原氏や高城氏、酒井氏といった有力武将たちに交代で城番を命じている。 天正4年(1576年)頃の12月11日、椎津城の前面にある久保田(窪田)城においては、北条家臣の松田憲秀が下総の原邦長、邦房に、久保田城の番として原氏が2500人出すことについて1000人しか出せないとの人員の赦免要請は認められないので、毎度通りに2500人出すようにと書状を出している。 「松田憲秀書状」(松田仙三氏所蔵原文書)「急度申候、其地窪田(袖ヶ浦市)御当番、定御番普請貳千五百人ニ候処、此内千人御披露之上、被成間敷之由候歟、御大途(北条氏)御赦免之儀、努無之候、如毎度、貳千五百人可有御勤候、為其一翰申入候、恐々謹言、(年未詳)極月(十二月)十一日 松尾(松田)憲秀 原大(邦長)原太炊(邦房) 御陣所」 天正5年(1577年)6月5日、北条氏政が土気城主の酒井伯耆守康治に、椎津の城番は高城(胤辰)であったが、高城は大手(出陣)に回すので、椎津へは東金(酒井政辰)と相談して酒井氏の人数を早く入れるよう、書状を送っている。「北条氏政書状」(『三浦文書』 千葉市立郷土博物館所蔵) 「北条氏政書状」(三浦文書 千葉市立郷土博物館所蔵) 「雖顕先書、猶遣飛脚候、椎津地之当番、高城(胤辰)ニ候ヘ共、高城大手へ参陣之間、人衆可引由申付候、彼地ヘ相当程、東金(酒井政辰)相談、自両所、早々人衆を籠置肝要候、恐々謹言、 (天正五年)六月五日 (北条)氏政 酒井(康治)伯耆守殿」
※この「補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦」の解説は、「椎津城」の解説の一部です。
「補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦」を含む「椎津城」の記事については、「椎津城」の概要を参照ください。
- 補足 天文21年 椎津合戦後の北条氏と里見氏の椎津城争奪戦のページへのリンク