池和田城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 池和田城の意味・解説 

池和田城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/09 06:34 UTC 版)

logo
池和田城
千葉県
池和田城
天守構造 なし
築城主 和田正治
築城年 不明
主な城主 和田氏、多賀氏
遺構 土塁、堀
指定文化財 なし
位置 北緯35度22分51.7秒 東経140度10分35.3秒 / 北緯35.381028度 東経140.176472度 / 35.381028; 140.176472座標: 北緯35度22分51.7秒 東経140度10分35.3秒 / 北緯35.381028度 東経140.176472度 / 35.381028; 140.176472
地図
池和田城
テンプレートを表示

池和田城(いけわだじょう)は、千葉県市原市池和田にあった日本の城

概要

池和田城は、鎌倉時代三浦氏の一族であった和田正治が築いたと言われている。池和田の地名も、和田氏に由来するものと言われる[1]

戦国時代には、多賀氏の居城であった。第一次国府台合戦のとき、池和田城主多賀高明は、里見義堯の武将として、小弓公方足利義明に属して出陣したが、惨敗して撤退した。多賀高明は、第二次国府台合戦にも里見氏に従って出陣したが、やはり敗れている。このとき北条軍は、勝ちに乗じて上総国に攻め込み、池和田城を攻撃した。

しかし、池和田城の西・北・南は深い田んぼで、馬ではどうすることもできず、東は高い山で要害となっており、そちらからも攻めるのが難しい。北条氏政は命令を下し、付近の民家を打ち壊してその堀切の埋草とし、山上から矢を飛ばして塀柵を引き破り攻めかけた。だが、北条軍は死傷者を多く出し、なかなか攻め落とせなかった[2]

このとき、城内に反忠のものがいて、深夜に城を放火した。城内は混乱し、北条軍は次々と城内に入り込み、やがて池和田城は陥落した。

構造

城の東側は、谷を隔てて険しい山に囲まれ、郭の裾にある広い道路は鶴舞の市街に通じている。この道路入口付近の崖の上が本丸で、郭内の最も高いところである。本丸の東方は空堀である[3]

アクセス

脚注

  1. ^ 府馬清 『房総の古城址めぐり 上巻』 有峰書店新社、p183
  2. ^ 『関八州古戦録』
  3. ^ 『日本城郭大系 第6巻』 新人物往来社、p174



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  池和田城のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「池和田城」の関連用語

池和田城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



池和田城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの池和田城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS