天正壬午の乱と徳川氏時代の勝山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/10 17:32 UTC 版)
「勝山城 (甲斐国都留郡)」の記事における「天正壬午の乱と徳川氏時代の勝山城」の解説
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田領国侵攻により武田氏は滅亡する。郡内領主の小山田信茂は勝頼から離反して織田氏に出仕するが信茂は処刑され小山田氏も滅亡し、都留郡の国衆・小山田家臣も離散する。織田氏の甲斐仕置では郡内を含む甲斐一国は織田家臣の河尻秀隆に与えられるが、同年6月の本能寺の変後に発生による一揆で秀隆は死去し、河尻氏の郡内支配の影響は少ない。 本能寺の変後に甲斐・郡内を含む武田遺領が空域化すると、三河国の徳川家康、相模国の北条氏直、越後国の上杉景勝の三者で甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、家康が甲斐南部の河内領をはじめ甲斐衆の多くを味方につけたのに対し、後北条氏は郡内の計略を行う。北条氏直は北杜市須玉町若神子の若神子城に本陣を起き、織田・後北条両氏は八ヶ岳南麓・七里岩台上にあたる、現在の北杜市域に布陣して互いに対峙した。後北条氏は徳川氏の背後を突くため8月9日には笹子峠(甲州市大和町)に布陣していた後北条勢が徳川方の大野砦(山梨市大野)へ侵攻し、8月10日には小田原から派遣された後北勢が本栖城を攻めた。さらに8月12日には北条氏忠の軍勢が鎌倉街道を侵攻し、黒駒合戦(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)において敗退している。こうした動向から後北条勢は谷村・勝山城を含む都留郡全域と交通路を支配下においていたと考えられている。 『治世元紀』『武家事紀』には後北条氏は谷村に拠点をおいていた可能性を示す記述があり、後北条氏は鎌倉街道沿いの御坂峠の御坂城を改修してことから、谷村館や勝山城も後北条氏による修築が行われていたとも考えられているが、2010年時点でそれを示す史料は発見されていない。 同年10月29日には徳川・北条同盟が成立し、後北条氏は甲斐国から撤兵し、郡内領も徳川方に明け渡された。徳川家康は郡内へ家臣の鳥居元忠を配置したが、元忠は郡内領の支配拠点を岩殿城に置いたという。
※この「天正壬午の乱と徳川氏時代の勝山城」の解説は、「勝山城 (甲斐国都留郡)」の解説の一部です。
「天正壬午の乱と徳川氏時代の勝山城」を含む「勝山城 (甲斐国都留郡)」の記事については、「勝山城 (甲斐国都留郡)」の概要を参照ください。
- 天正壬午の乱と徳川氏時代の勝山城のページへのリンク