天正年間以前の大友・島津の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 06:04 UTC 版)
「耳川の戦い」の記事における「天正年間以前の大友・島津の関係」の解説
豊後の大友氏と薩摩の島津氏との関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。不安定な領内情勢が続いていた島津氏にとっては自国の安定を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573年)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560年)に室町幕府将軍・足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝(政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は不安定な領内を落ち着かせ、大友氏も北部九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。
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