日向の伊東氏とは? わかりやすく解説

日向の伊東氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:41 UTC 版)

伊東氏」の記事における「日向の伊東氏」の解説

日向の伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で殺され工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向地頭職与えられ庶家下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏門川伊東氏木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向東国武士勢力扶植していった日向支配するようになったのは、建武2年1335年)、足利尊氏から命じられ日向下向した伊東祐持(すけもち)からである。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子所領であった穆佐院を守る為、日向都於郡300町を賜ったと言われている。祐持は国大将として下向した畠山直顕属して日向国内の南朝方と戦った征西府拡大観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内混乱したが、日向伊東氏基本的に北朝方(及び観応の擾乱時における尊氏派)の立場守り幕府忠節尽くした息子の祐重(すけしげ)も将軍尊氏から偏諱受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名した室町戦国期通じて日向伊東氏守護島津氏抗争繰り返しながら次第版図広げていった。長禄4年/寛正元年2年1461年)には6代当主伊東祐堯将軍足利義政から内紛激しい島津氏代わり守護職務代行せよという御教書偽文書説もある)が下され続いて御相伴衆任じられている。その後8代当主伊東尹祐11当主伊東義祐父子足利将軍家将軍足利義尹足利義晴)より偏諱受けている。後者の義祐は、兄・祐充や弟・祐吉の死去により家督相続し飫肥島津豊州家抗争、これを圧倒し、更に真幸院領する北原氏後継人事強引に介入してその領地横奪すると、佐土原城本拠四十八の支城伊東四十八城)を国内擁し位階歴代最高位たる従三位昇るなど最盛期築き上げた。しかし、義祐は晩年から、奢侈中央から取り入れた京風文化溺れて次第政務関心を示さなくなり元亀3年1572年)、木崎原の戦い島津義弘退けられたことを契機に、日向伊東氏衰退した天正5年1577年)、島津氏侵攻に耐えられなくなった義祐は日向追われて、その後瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したという。こうして日向伊東氏一時的に没落したが、家臣山田宗昌大友氏客将として入り栂牟礼城などで何度も島津軍を破るなど多く戦功立て、義祐の三男伊東祐兵中央逃れて羽柴秀吉家臣となり、天正15年1587年)の九州平定先導役を務め上げた功績認められ日向大名として復帰成し遂げた慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は病の身であったため、家臣代理として東軍送っている。その功績により所領安堵され、以後日向伊東氏江戸時代通じて一貫して廃藩置県まで飫肥藩として存続することとなった。後に藩主華族となった。 なお、この日向伊東氏一族からは下記人物出ている。 祐持の従兄弟伊東祐熙(すけひろ、祐持と氏祐の間に当主であったとされる)の末裔とされ、北条氏政仕えた伊東政世大友宗麟大村純忠有馬晴信らが送り出した有名な天正遣欧少年使節主席正使としてローマに赴き、教皇グレゴリウス13世)に拝謁した伊東祐益こと伊東マンショ伊東祐審(すけあき)の嫡流伝えられ日清戦争時に初代連合艦隊司令長官務めた元帥海軍大将伊東祐亨

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