日向の後継・身延3世へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 15:36 UTC 版)
「日進 (身延3世)」の記事における「日向の後継・身延3世へ」の解説
日進は日蓮の本弟子で六老僧の1人・日向の弟子となり研鑽を積んだ。 日向は論議第一と称された日蓮の本弟子で、身延山に籠った日蓮の代わりに上総(現・千葉県中部)の常楽山妙光寺(現・常在院藻原寺)を任されていた。弘安5年(1282年)日蓮が没すると、日向は妙光寺2世となり、身延山久遠寺は六老僧が交代で守った。6年後、日向は妙光寺を弟子の日秀に任せながら兼任する形で身延山久遠寺2世に就任。日向は甲斐国波木井郷の領主・南部実長とその子らの外護を受けて久遠寺の基礎を固めた。正和2年(1313年)日向は久遠寺を弟子の日進に委ね、自身は上総の藻原に隠棲した。日向は妙光寺を日秀に託し翌年没した。 日向の後を継ぎ身延山久遠寺3世となった日進は寺院経営に尽力する一方、上総と下総での布教にも取り組んだ。特に日向が隠棲した上総藻原の一帯は、日秀の教化とも相まって豪族から一般庶民に至るまで信徒が大幅に増加した。この教線の拡充は後世に藻原門徒と称されるほどの一大勢力へと拡大していった。
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