肝付氏と島津氏の争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 10:01 UTC 版)
こうして、肝付氏と島津氏の2大勢力は南九州に生まれたのである。 肝付氏は、南北朝の争乱が一段落した後は、島津氏に服属していたが、戦国時代に入ると領土問題から島津氏と対立し、日向の伊東氏と手を結んで島津氏と争う事となった。 永禄4年(1561年)、肝付家第16代当主兼続は飫肥方面に向けていた兵を大隅に向けた。廻城(霧島市福山)攻めである。これは、島津忠良・貴久らに対する本格的な宣戦布告であった。 肝付家の島津氏への戦いは、肝付家第19代当主兼護が天正2年(1574年)に島津氏へ臣従するまで続くのである。
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