肝付氏による相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 10:01 UTC 版)
肝付氏は元々『伴(ばん)』という姓であった。 大伴氏の後裔伴氏は、冷泉天皇(在位:康保4年<967年>~安和2年<969年>)の代、すなわち安和元年(968年)に河内守伴兼行が大宰府の大監(だいげん)となり、薩摩掾を兼ねて、翌2年(969年)薩摩国に下向し、鹿児島郡神敷村(現:鹿児島市伊敷)に館を建て、薩摩掾として事務を執った。館跡は伴掾御館(ばんぜおやかた)という遺跡名として残っている。一説では薩摩国総追捕使という、軍事・警察的役目を担っていたと言われている。長元9年(1036年)伴兼貞の時に大隅国弁済使となり、高山に拠点を移し、肝属郡を領した。弁済使とは下司とも呼ばれ、荘園管理事務を行う役目である。 その後、兼貞は都城盆地に島津荘を開拓した平季基の娘もしくは平季基の子・伊佐平次兼輔の娘を娶り、島津荘を譲り受け、5子をもうけた。 こうして、伴氏は肝属郡の他に、藤原摂関家を後ろ盾とした三州にわたる広大な領地を得たのである。兼貞の長男兼俊は肝付姓を称し、肝付家の祖となり、肝付家一門で三州各地に領地を与えられ、繁栄を極めたのである。 すなわち、次男兼任を萩原に、三男俊貞を安楽に、四男行俊を出水に、5男兼高を梅北(現:都城市梅北町)にそれぞれ配置して宗家の藩屏たらしめた。
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