マリア・デ・アブスブルゴとは? わかりやすく解説

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マリア・デ・アブスブルゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 23:53 UTC 版)

マリア・フォン・シュパーニエン
Maria von Spanien
神聖ローマ皇后
在位 1564年7月25日 - 1576年10月12日
別称号 ボヘミア王妃:
1562年9月20日 - 1576年10月12日
ハンガリー王妃:
1563年9月8日 - 1576年10月12日

出生 1528年6月21日
スペイン帝国マドリード
死去 (1603-02-26) 1603年2月26日(74歳没)
スペイン帝国マドリード、ラス・デスカルサス・レアレス修道院
埋葬 スペイン帝国マドリード、ラス・デスカルサス・レアレス修道院
結婚 1548年9月13日 バリャドリッド
配偶者 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世
子女 一覧参照
家名 スペイン・ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝カール5世
母親 イサベル・デ・ポルトゥガル
宗教 キリスト教カトリック
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マクシミリアン2世と家族

マリア・デ・アブスブルゴ・イ・アビス(Maria de Habsburgo y Avis, 1528年6月21日 - 1603年2月26日)は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇后。ドイツ語名ではマリア・フォン・シュパーニエン(Maria von Spanien)と呼ばれた。

生涯

神聖ローマ皇帝カール5世と皇后イザベラの長女(第2子)として、マドリードで誕生した。スペインフェリペ2世は兄である。

1548年に従兄に当たるマクシミリアンと結婚した。父の要請により、その不在時にスペインで夫とともに摂政を務め、1552年からウィーンへ移った。マリアは、皇帝となる2人の息子、ルドルフ2世マティアスに多大な影響を与えた。また、保守的なカトリック教徒であり、進歩的な思想を持つ夫マクシミリアンとしばしば対立した。

夫の死後、1582年にスペインへ帰国した。帰国後マリアは、「異教徒のいない国に住めてとても幸せだ。」と言ったという。1603年に亡くなるまで、スペイン国政に出しゃばることはなかった。

子女




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