コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャとは? わかりやすく解説

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コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/09 14:09 UTC 版)

アラゴーニアイ・コンスタンツィア
コスタンツァ・ダラゴーナ
コンスタンツェ・フォン・アラゴン
Aragóniai Constancia
Costanza d'Aragona
Konstanze von Aragon
ハンガリー王妃
シチリア王妃
神聖ローマ皇后
在位 ハンガリー王妃:1198年 - 1204年11月30日
シチリア王妃:1209年8月15日 - 1222年6月23日
神聖ローマ皇后:1220年11月22日 - 1222年6月23日

出生 1179年
死去 1222年6月23日
シチリア王国カターニア
埋葬 シチリア王国パレルモ大聖堂
結婚 1198年
1209年8月15日 メッシーナ
配偶者 ハンガリーイムレ
  神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
子女 ハンガリー王ラースロー3世
ローマ王ハインリヒ7世
父親 アラゴンアルフォンソ2世
母親 サンチャ・デ・カスティーリャ
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コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Constanza de Aragón y Castilla, 1179年 - 1222年6月23日)は、アラゴンアルフォンソ2世と王妃サンチャカスティーリャアルフォンソ7世の娘)の長女。ハンガリー語コンスタンツィア (Aragóniai Constancia)、ドイツ語コンスタンツェ・フォン・アラゴン (Konstanze von Aragon)、イタリア語コスタンツァ・ダラゴーナ (Costanza d'Aragona)。

生涯

1198年にハンガリーイムレと結婚した。2人の間には1男ラースロー3世が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラースローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟アンドラーシュ2世によって廃位された。コンスタンサとラースローはオーストリア公レオポルト6世の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コンスタンサはアラゴンへ帰国した。

のち、1209年にシチリア王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。フェデリーコとの間には1男ハインリヒが生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前にローマ王位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年にアプーリアに護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。

コンスタンサが2人の夫それぞれとの間にもうけた息子たちは、いずれも嫡男として生まれて父王の後継者とされながら、終わりを全うすることができなかったことになる。




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