マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエンとは? わかりやすく解説

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マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:12 UTC 版)

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マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
Maria Ludovika von Spanien
神聖ローマ皇后
在位 1790年 - 1792年

出生 1745年11月24日
ナポリ王国ポルティチ
死去 (1792-05-15) 1792年5月15日(46歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーンホーフブルク宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーンカプツィーナー納骨堂
結婚 1765年8月5日 インスブルック
配偶者 神聖ローマ皇帝レオポルト2世
子女 一覧参照
家名 スペイン・ブルボン家
父親 スペイン王カルロス3世
母親 マリア・アマリア・フォン・ザクセン
宗教 キリスト教カトリック教会
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マリア・ルドヴィカドイツ語名:Maria Ludovika von Spanien, 1745年11月24日 - 1792年5月15日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の皇后。父はスペイン王カルロス3世、母はポーランド王ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘マリア・アマリアスペイン語名はマリーア・ルイサ・デ・エスパーニャMaría Luisa de España)。

生涯

カンパニア地方のポルティチで生まれた。当時、父カルロスはナポリ王国シチリア王国の王であった。

1764年にハプスブルク=ロートリンゲン家のレオポルト大公と結婚、翌1765年にレオポルトが父である皇帝フランツ1世からトスカーナ大公国を相続したことでトスカーナ大公妃となった。

1790年にはレオポルトが兄ヨーゼフ2世から帝位を継承したため皇后となったが、1792年に夫と死別後間もなく自身も死去した。

子女

夫のレオポルト2世との間に16子をもうけた。




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