ラニエーリ・ダズブルゴとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > ハプスブルク=ロートリンゲン家 > ラニエーリ・ダズブルゴの意味・解説 

ラニエーリ・ダズブルゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 04:41 UTC 版)

ラニエーリ
Ranieri
アズブルゴ=ロレーナ家
ラニエーリ大公(1840年)

全名
称号 エスターライヒ大公
出生 (1783-09-30) 1783年9月30日
トスカーナ大公国ピサ
死去 (1853-01-16) 1853年1月16日(69歳没)
オーストリア帝国ボーツェン
埋葬 オーストリア帝国ボーツェン、マリア・ヒンメルファールト大聖堂
配偶者 マリーア・エリザベッタ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ
子女
父親 レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ
役職 ロンバルド=ヴェネト副王
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

ラニエーリ・ダズブルゴイタリア語: Ranieri d'Asburgo, 1783年9月30日 - 1853年1月16日)は、ロンバルド=ヴェネト王国の初代副王(総督)。ドイツ語名はライナー・フォン・エスターライヒRainer von Österreich)。

生涯

トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の十男としてピサで生まれる。

1820年5月28日プラハにおいてカリニャーノ公女マリーア・エリザベッタカルロ・エマヌエーレの娘)と結婚した。

ラニエーリは1818年から1848年までロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めた。彼の置かれた立場はわずかな行政責任と、自身と妻がミラノにおけるオーストリア宮廷の長と主張できるという許可であった。

1848年1月18日、ウィーンから遠くなく、政府との通信にも便利なヴェローナへと移り、ミラノを離れた。ミラノとモンツァの宮殿はマクシミリアン大公が9月に到着するまで無人のまま放置された。1848年3月17日ミラノの5日間の前夜にチロルへ移った。

1853年、ボーツェンで没した。遺体は後に没したマリーア・エリザベッタとともにボーツェンのマリア・ヒンメルファールト大聖堂ドイツ語版に埋葬された。

子女

マリーア・エリザベッタとの間に以下の6男2女を儲けた(イタリア語名で記す)。

  • マリーア・カロリーナ(1821年 - 1844年)
  • アデライデ(1822年 - 1855年) - マリーア・アデライデと改名し、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と結婚。ウンベルト1世を産んだことにより、ラニエーリはイタリア王家全員の先祖となった。
  • レオポルド・ルイージ英語版(1823年 - 1898年)
  • エルネスト・カルロ英語版(1824年 - 1899年)
  • シジズモンド・レオポルドドイツ語版(1826年 - 1891年)
  • ラニエーリ・フェルディナンドイタリア語版(1827年 - 1913年)
  • エンリコドイツ語版(1828年 - 1891年) - 1868年、レオポルディーネ・ホフマン(ヴァルデック男爵夫人)と貴賤結婚した。
  • マッシミリアーノ(1830年 - 1839年)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ラニエーリ・ダズブルゴ」の関連用語

ラニエーリ・ダズブルゴのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ラニエーリ・ダズブルゴのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのラニエーリ・ダズブルゴ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS