19世紀前半: オーストリア帝国による統治
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「モンツァ」の記事における「19世紀前半: オーストリア帝国による統治」の解説
1815年、フランス第一帝政の没落により、オーストリアはイタリアの領土を回復してロンバルド=ヴェネト王国とし、抑圧的な官吏たちが派遣された。モンツァはミラノの行政区に含まれた。モンツァの人々は、ナポレオンが持ち去った宝物やカピトラーレ図書館の蔵書の返還を求め、1816年3月2日に返還が実現した。図書は無事であったが、アギルフォ王の王冠(Corona di Agilulfo)などいくつかの宝物はパリで盗難に遭ったり、溶かされていたりして失われた。 1816年、皇帝フランツ2世の勅令によって、モンツァは公式に都市(città)の格を得た。1818年、ラニエーリ・ダズブルゴ(ロンバルド=ヴェネト副王・オーストリア大公)によって、王宮は再び利用された。 1835年にフランツ2世の跡を継いだフェルディナント1世は、1838年9月6日にミラノでロンバルド=ヴェネト王として鉄王冠を戴冠する儀式を行っている。フェルディナント1世の治世下、モンツァにさまざまな発展がもたらされた。市内にはフェルディナンド王通り(現在のヴィットーリオ・エマニュエレ通りの一部)という新しい道路が開かれ、1842年には古代ローマのアリーナ橋の近くにレオーニ橋(Ponte dei Leoni、「ライオンの橋」の意)が建設され、夜にはガス灯が灯された。 この時代、羊毛工業に代わって、フェルト工業が盛んになった。1840年8月17日にはミラノとモンツァを結ぶ鉄道 (Milan–Monza railway) が開通した。これは、北イタリアで建設された最初の鉄道であった。
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