19世紀半ばと南北戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:05 UTC 版)
「ガバナーズ島」の記事における「19世紀半ばと南北戦争」の解説
米英戦争後、この島はさほど発展しなかった。むしろ1812年頃から始まる軍隊の駐留用に活用されていた。島に駐留した軍隊は、残りの19世紀の間に4度戦争に配備された。陸軍とは別同隊で砲撃を扱うニューヨーク・アーセナルは、1832年にこの島に移ってその3年後に武器庫の建設を始めた。アーセナルの構造物建設は数十年にわたって続いた。アーセナルと陸軍の建物を区別するために、前者の建物は1843年に建てられた提督住居のようなギリシア復興様式(グリーク・リヴァイバル)で設計された。 陸軍は当時この島に駐留軍を展開しており、1830年代には将校の兵舎や病院などの新たな建物を幾つか建設した。また陸軍は石積みの防潮堤を追加し、1850年代から「管理・訓練センター」を開設した。募兵センターと兵舎の建設は、コロンバス砦の東にノーラン・パークという公園造成をもたらす結果となった。これらの変更と共に、防衛迎撃が始まる際に見晴らしの利く地点になるようコロンバス砦とウィリアムズ城の間にある藪草地帯を刈り込んだ。それ以外の陸軍の建物には、米墨戦争および南北戦争時期に運用された集会所や音楽学校などがあった。それでも、部隊の大半がテント生活を続けていた。陸軍要員の宗教要件に対応するため、1846年にプロテスタント用の小さなゴシック復興様式の礼拝堂がガバナーズ島に建設された。 仮設病院は建てられたものの、特に南北戦争のために新たな恒久的建造物は建設されなかった。同病院では1850年代および1860年代にコレラと黄熱病の流行で感染患者を治療した。戦争中、ガバナーズ島はまだ要塞が機能するにもかかわらず、主に召集兵の支援施設として使用されていた。ウィリアムズ城は南軍の捕虜を収容し、コロンバス砦は捕虜となった南軍の将校を収容した。質素な収容施設では千人を超える囚人を収容することもしばしばで、しばしば脱走して「本土」のマンハッタンまで泳く者もいた。1863年のニューヨーク徴兵暴動の最中に、陸軍部隊がマンハッタンに配備された際に抗議者らがこの島を占拠しようとするも失敗に終わった。 戦後、ウィリアムズ城は軍事刑務所として活用され、レブンワース砦やアルカトラズ島といった軍事刑務所の東海岸版となった。インフラ等の施設が修理されて未使用の建造物は解体され、1875年にはコロンブス砦の北に新たな軍需倉庫が建設された。以前は未開発だった島の北部および東部で重要な開発が行われた。具体的にはコロンバス砦外側にある木造の古い兵舎が移設され、砦の東にあるノーラン・パークに新たな士官宿舎が建設された。島の北側と西側にある防潮堤は、更なる建設用地を作るため更地に戻したり拡張が行われた。この拡張期間の1870年に、島では特に重篤な黄熱病の伝染が起こり、数百人が病に罹って検疫を要した。黄熱病患者を収容していた建造物は後に取り壊された。これらの異変がありながらも、1873年にコロンバス砦やウィリアムズ城は依然として機能していたと記されている。 1878年に、コロンバス砦は主要な陸軍行政センターになり、陸軍士官の家族が流入するようになった島にある娯楽的な選択肢としては、ノーラン・パークのテニスコート、南側砲台の市民農園、ゴルフ場、サイクリング用遊歩道があった。島には墓地もあり、当初は黄熱病とコレラの犠牲者を受け入れていたが、1878年に埋葬が中止されて1886年までに全てブルックリンに移設された。 ガバナーズ島の人里離れた雰囲気は、1885年に米国初のゴミ焼却炉が島に建設された際に若干変化した。その後の1890年代や1900年代の建設で、島には幾つかの将校住居が追加された。ガバナーズ島をロウアー・マンハッタン居住者用の公園に変える運動は、1888年から始まっている。公園提唱者達はセントラル・パークやプロスペクト・パークがロウアー・マンハッタン居住者には遠すぎると主張したが、この計画は実現しなかった。
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