19世紀及び20世紀における敷設計画
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「チャドの鉄道」の記事における「19世紀及び20世紀における敷設計画」の解説
ドイツの鉄道企業複合体がチャドの探検を行った経緯について、1905年に出版された本には次のように記載されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1885年に新しくドイツ植民地・カメルーンが成立した。多くのドイツ人有力者が、鉄道建設なくしては植民地経済の潜在力が発揮されないと考えた。彼らは1900年にカメルーン鉄道・企業複合体を設立し、1902年にドイツ政府から、内陸との貿易を目的とした鉄道の敷設免許を得た。同企業複合体は計画路線の調査に出資し、調査は1902年頃から1904年にかけて行われた。 —René, Carl (1905). Cameroon and the German Lake Chad Railway - World Digital Library. http://www.wdl.org/en/item/640/ 2015年6月5日閲覧。 チャドには、フランスの植民地時代(フランス領赤道アフリカ)に、鉄道を敷設し近隣のアフリカ諸国(カメルーン、ナイジェリア、ウバンギ・シャリ植民地)とチャドを結ぶ計画や提言がいくつかあった。初期の提言としては、1930年代にドゥアラにあるカメルーンの鉄道システムをチャドまで延伸するというものがあった。隣国カメルーンがフランス領となる前、第一次世界大戦以前のドイツ帝国では、ミッテルアフリカ(英語版)(ドイツ領中央アフリカ構想)の一環として、非公式な計画ではあるがカメルーンのドゥアラからバンギへ鉄道敷設の可能性が調査されていた。 1950年代には、ポート・スーダンからチャドを通り、ナイジェリアへ接続する路線の提案があったが、チャドの政府機関が反対した。 1958年には、カメルーンから延びる路線計画が「ドゥアラ・チャド鉄道調査委員会(Société Civile d'Études du Chemin de Fer Douala-Tchad (SEDOT))」によりまとめられた。計画は続けられ、1964年に建設開始にこぎつけた。1975年にはカメルーンのンガウンデレまで開通した(カムレール)。当初の計画はチャドのムンドゥまでの延伸であったが実行されなかった。 1959年には国際機関である「赤道国家間連絡機関(Agence Transéquatoriale des Communications (ATEC))」が、フランス領赤道アフリカの連邦を構成する四地域(21世紀現在のチャド、中央アフリカ共和国、ガボン、コンゴ共和国に相当)の協同を取りまとめ、河川と鉄道を使った交通システム「ルート・フェデラル(Route fédérale)」を運営することを目的として設立された。ルート・フェデラルは、ポワント=ノワールを終点として内陸へ通じる交通網であり、そのうちの一部として中央アフリカのバンギからチャドへ延びる鉄道が構想された。この路線は、Bangui-Chad railroad 又は Le chemin de fer Bangui-Tchad という。この「バンギ=チャド線」構想は、採算がとれるかどうかを検討する準備段階にまで進んだが、各国独立後の1962年に打ち切りとなった。
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