19世紀半ば以降の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 23:50 UTC 版)
「プラッハ・イム・イーザルタール」の記事における「19世紀半ば以降の歴史」の解説
1854年にバイエルン・マクシミリアン鉄道(ドイツ語版)、1891年にはイーザルタール鉄道(ドイツ語版)が建設されると、プラッハはミュンヒェン市民の行楽地となった。国有鉄道の駅は大量の乗客に対応するため、ホームは6線あった。ミュンヒェン市民は、イーザル崖岸に沿って群れを成して訪れたのは、各5,000人を収容する大ビアガーデン、グロースヘッセローエのヴァルトヴィルトシャフト、地区中心部のカラス亭 (Rabenwirt)、またビュルガーブロイであった。 プラッハはこの他にもミュンヒェン南部の芸術家コロニーとして開発された。この時代に建てられたイーザル川崖岸のヴィラの多くは今に残り、またルートヴィヒ・シュヴァーンターラー(ドイツ語版)が建設したシュヴァーネック城(ドイツ語版)は今日、大部分がユースホステルとして利用されている。 1892年にはプラッハのイーザル川近くに保養施設ができたが、わずか1904年までの営業であった。 1894年以降、ヘルリーゲルスクロイト地区には水力・火力発電所が建設され、1901年に別の水力発電所がプラッハに建設された。これらの発電所によってプラッハの工業化の基礎が築かれた。企業としてはリンデ製氷機(Lindes Eismaschinen, 今日のLinde AG)、ミュンヒェン電気化学工場(Elektrochemische Werke München, 今日の United-Initiators)である。 国民社会主義の時代には、プラッハにルドルフ・ヘス帝国住宅地(ドイツ語版)が整備され、ナチ党の幹部が居住した。また総統大本営も建設され、今日はBNDの敷地となっている。 「#公共施設」も参照 ミュンヒェン周辺で初の自治体として、プラッハでは2005年に地熱エネルギーによる地域暖房が稼働した。マルム世の地層にボーリングし、107℃の熱水を得て、暖房供給に利用している。 2006年7月の終わりには、自治体の1,200周年を祝う大祝典週間が催された。
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