19世紀初頭の都市化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 15:31 UTC 版)
「ブルックリン区」の記事における「19世紀初頭の都市化」の解説
19世紀初頭になると都市の拡大と共にマンハッタンに次ぎキングス郡の都市化が顕著となった。19世紀後半まではマンハッタンとの交通手段は蒸気船しかなく、小作が行われている農業地帯も多かったがニューヨーク港を効率よく利用できる地形から工業化も進み、また財界人のベッドタウンとしても発展が加速した。1806年にはウォーラバウト港にブルックリン海軍工廠も創業し1966年まで造船を続けた。 初期の都市化はロウワー・マンハッタン(マンハッタン島南端)からアクセスの良いブルックリン街より始まり、フルトン・フェリー地区から就航した蒸気船によってブルックリン・ハイツはウォール・ストリートに勤める人々の住宅街として発展した。このフェリー駅からクイーンズのジャマイカ地区を結ぶ道はフルトン・ストリートとなりイースト・ニューヨーク地区まで延びた。また複数あった街や村のいくつかは統合され1834年にブルックリン市が誕生した。 これと平行してやや北にあるブッシュウィック町もウィリアムズバーグ村と共に発展。ウィリアムズバーグ村は1840年にウィリアムズバーグ町より分離された村であったが、1851年にはウィリアムズバーグ市ができたことで統合された。このころのキングス郡には2つの市と6つの町が存在しており独立地方行政が敷かれていた。またマンハッタンが1811年委員会計画で完璧な格子状の道路網を築いたのに対し、複数の区画を有していたキングスはあえて道路を碁盤の目にはせず、それぞれの行政が独自に道路網を整備した。これはもともとオランダとイギリスが別々に開拓したために東部と西部で街路の仕組みが異なっていたことも原因である。西部ではマンハッタンと同じ方式で南北にアヴェニュー(街)が走り、東西にストリート(丁目)が走るが、東部ではその逆で、南北にストリートが走り、東西にアヴェニューが走る。東部ではアヴェニューも数字ではなくアルファベット順となる。ウィリアムズバーグ地区とその後背地であるブッシュウィックはイーストリバー沿いであったことから誕生からわずか3年で急激な成長を見せ、1854年にはブルックリン都市圏として扱われるに至った。 19世紀中盤よりインダストリアル・ディコンセントレーション(産業の脱集中化)といわれる都市部からの工業地帯の締め出しによってマンハッタンからロングアイランド西部へと移ってきた産業により、造船や製造業などの雇用が生まれ、ブルックリンは合衆国東海岸北部の主要工業地帯となった。
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