マリア・デ・カスティーリャとは? わかりやすく解説

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マリア・デ・カスティーリャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/20 09:06 UTC 版)

マリア・デ・カスティーリャ
María de Castilla
アラゴン王妃
在位 1416年 - 1458年
別称号 シチリア王妃
ナポリ王妃
バレンシア王妃
バルセロナ伯妃

出生 (1401-09-01) 1401年9月1日
カスティーリャ王国セゴビア
死去 (1458-10-04) 1458年10月4日(57歳没)
バレンシア王国バレンシア
埋葬 バレンシア王国、バレンシア
後にナポリ、サンタンナ・デイ・ロンバルディ聖堂
結婚 1415年6月12日 バレンシア大聖堂
配偶者 アラゴンアルフォンソ5世
家名 トラスタマラ家
父親 カスティーリャエンリケ3世
母親 カタリナ・デ・ランカステル
宗教 ローマ・カトリック
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マリア・デ・カスティーリャ(María de Castilla, 1401年9月1日 - 1458年10月4日)は、アラゴン王兼ナポリアルフォンソ5世の王妃。カスティーリャエンリケ3世と王妃カタリナの娘。

生涯

1415年に従兄であるアルフォンソと結婚し、翌1416年の夫の王位継承により王妃となった。2人の間に子供は生まれなかった。なお、1418年にマリアの弟カスティーリャ王フアン2世とアルフォンソ5世の妹マリアが、1420年にマリアの妹カタリナとアルフォンソ5世の弟エンリケが結婚している[1]

アルフォンソ5世はアラゴン王位と共にバルセロナ伯、およびバレンシアシチリアの王位を継承していたが、ナポリ王位を争って1442年に獲得した。アルフォンソ5世はたびたび出征を重ねた後、ナポリ王国の征服後はナポリに宮廷を構えてアラゴンやカタルーニャへは戻らなかった。そのため、マリアは夫に代わって摂政としてアラゴン・カタルーニャを治めた。しかし、義弟フアン(後のアラゴン王フアン2世)が生地カスティーリャへ軍事介入したり、アラゴンがナポリへ財政支援を行った影響で窮乏、都市と農村で貴族と職人、役人と農民の対立が深刻化した。国内の問題を抑えきれないマリアはナポリの夫へ手紙を送り、何度もアラゴンへの帰国を嘆願したが却下された[2]

1458年、夫の死から3か月余り後にバレンシアで死去した。

脚注

  1. ^ 田澤、P189 - P190、西川、P194、P204、P208。
  2. ^ 田澤、P190、関、P242。

参考文献

  • 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中央公論新社中公新書)、2000年。
  • 関哲行立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
  • 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語彩流社、2016年。
先代
エンリケ3世
アストゥリアス女公
1402年 - 1405年
次代
フアン2世



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