マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャとは? わかりやすく解説

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マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/31 19:35 UTC 版)

マリア・デ・アラゴン
Maria de Aragão
ポルトガル王妃
在位 1500年 - 1517年

出生 1482年6月29日
カスティーリャ王国
コルドバ
死去 (1517-03-07) 1517年3月7日(34歳没)
ポルトガル王国
リスボン
埋葬 ポルトガル王国
ジェロニモス修道院
結婚 1500年10月30日
アルカセル・ド・サル
配偶者 マヌエル1世
子女 一覧参照
家名 トラスタマラ家
父親 アラゴン王フェルナンド2世
母親 カスティーリャ女王イサベル1世
宗教 キリスト教カトリック教会
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マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャMaría de Aragón y Castilla)またはマリア・デ・トラスタマラMaría de Trastámara:いずれもスペイン語名、1482年6月29日 - 1517年3月7日)は、ポルトガルマヌエル1世の2度目の王妃。

生涯

アラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の三女(第4子)として生まれた。マヌエルの先妻はマリアの長姉イサベルであったが、1498年に死別し、1500年にマリアと再婚した。マリアは10子を生んだが、王に先だって1517年に病死した。

翌1518年、マヌエルはイサベルおよびマリアの姪レオノール(マリアの次姉フアナ女王の娘)と3度目の結婚をした。

子女

系譜

マリア 父:
フェルナンド2世 (アラゴン王)
(カスティーリャ王フェルナンド5世)
祖父:
フアン2世 (アラゴン王)
曽祖父:
フェルナンド1世
曽祖母:
レオノール・デ・アルブルケルケ
祖母:
フアナ・エンリケス
曽祖父:
ファドリケ・エンリケス[1]
曽祖母:
マリアナ・デ・コルドバ
母:
イサベル1世 (カスティーリャ女王)
祖父:
フアン2世 (カスティーリャ王)
曽祖父:
エンリケ3世 (カスティーリャ王)[2]
曽祖母:
カタリナ[3]
祖母:
イサベル
曽祖父:
ジョアン(アヴェイロ公)[4]
曽祖母:
イザベル・デ・バルセロス[5]
  • 姉:フアナ - カスティーリャ女王となるが、精神疾患のため幽閉される。
  • 妹:カタリナ - イングランド王ヘンリー8世妃(英語名:キャサリン)。
[1]はカスティーリャ王エンリケ2世の弟ファドリケの子孫。
[3]はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、カスティーリャ王ペドロ1世の次女コンスタンサの一人娘。よって[2][3]の結婚は、第一次カスティーリャ継承戦争の末にペドロ1世を破って王位についたエンリケ2世(トラスタマラ朝の祖)とペドロ1世の血統が合一・和解するという歴史的意義がある。
[4]はポルトガル王ジョアン1世の王子で、兄にドゥアルテ1世エンリケ航海王子がいる。また[4]たちの母フィリッパは、[3]の異母姉である。
[5]はポルトガル王ジョアン1世の庶子ブラガンサ公アフォンソ1世の娘。よって[4]と[5]の結婚は叔姪婚となる。





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