コンスタンス・オブ・カスティル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 14:53 UTC 版)
コンスタンス・オブ・カスティル Constance of Castile |
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出生 | 1354年![]() |
死去 | 1394年3月24日![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント |
子女 | キャサリン ジョン |
家名 | ボルゴーニャ家 |
父親 | カスティーリャ王ペドロ1世 |
母親 | マリア・デ・パディーリャ |
コンスタンス・オブ・カスティル(Constance of Castile, 1354年 - 1394年3月24日)は、イングランド王族ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの2番目の妃。カスティーリャ王ペドロ1世とマリア・デ・パディーリャの娘。スペイン語名はコンスタンサ・デ・カスティーリャ(Constanza de Castilla)。
生涯
1371年にアキテーヌでジョン・オブ・ゴーントと結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。
- キャサリン(1372/1373年 - 1418年)
- ジョン(1374年 - 1375年)
翌1372年に妹イザベラ(イサベル)が、夫の弟ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーと結婚している。
コンスタンスの父ペドロ1世は庶兄エンリケ2世との戦い(第一次カスティーリャ継承戦争)の末、1369年に殺害されて王位を奪われた。ジョンは1386年から1389年にかけてカスティーリャへ遠征し、妻の権利として王位継承権を主張したが、目的は達せられなかった。1393年に娘キャサリンがエンリケ2世の孫エンリケ3世と結婚することで、両家は和解した。
コンスタンスは1394年にレスターで死去した。2年後の1396年、ジョンは長年の愛人だったキャサリン・スウィンフォードを3番目の妃に迎えた。

固有名詞の分類
ボルゴーニャ家 (カスティーリャ) |
コンスタンス・オブ・カスティル コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ サンチョ・デ・アルブルケルケ エリナー・オブ・カスティル フアン・マヌエル |
イングランド王族の妃 |
メアリー・ド・ブーン ジャクリーヌ・ド・エノー コンスタンス・オブ・カスティル キャサリン・スウィンフォード コンスタンス・ド・ブルターニュ |
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