伊東祐勝とは? わかりやすく解説

伊東祐勝(いとう すけかつ) 1569~1594

小右衛門尉 義勝 ゼロニモ
◇父:伊東義益
 日向伊東氏一族天正遣欧使節候補挙がっていたが、予定が合わなかったため、代わりに一族祐益(マンショ)が選ばれたという。朝鮮出兵参加して病となり、帰国病没

伊東祐勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 02:25 UTC 版)

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伊東祐勝
時代 安土桃山時代
生誕 元亀元年(1570年[注釈 1]
死没 文禄2年6月14日1593年7月12日[注釈 2]
別名 小右衛門(尉)[1]
霊名 ジェロニモ(ゼロニモ[1]
主君 伊東祐兵
氏族 日向伊東氏
父母 父:伊東義益[1]、母:阿喜多(一条房基娘)
兄弟 義賢祐勝伊東祐兵正室
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伊東 祐勝(いとう すけかつ)は、安土桃山時代武将伊東氏の家臣。

略歴

父・伊東義益永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・義祐によって養育された[1]天正5年(1577年)に伊東氏が没落すると母の縁者である大友宗麟の保護を受けた[1]。同8年(1580年)に宗麟の影響を受けてキリシタンとなり「ジェロニモ」(ゼロニモ[1])の洗礼名をもらう。また安土(現・近江八幡市安土町)のセミナリオに留学し、天正遣欧少年使節の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された(『イエズス会日本通信』)。

天正15年(1587年)、豊臣氏による九州平定後、叔父・伊東祐兵飫肥城に復帰すると帰参した。文禄の役では、兄・義賢や叔父らと朝鮮に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ長門国まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した[1]。享年24。没月日には「7月14日」説もある。

なお、兄・義賢と前後して死去していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたとする説もある(『日向纂記』巻7-9)。

脚注

注釈

  1. ^ 『戦国人名事典』では生年は永禄12年(1569年[1]
  2. ^ 『戦国人名事典』では没年は文禄3年(1594年[2]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 阿部 & 西村 1990, p. 110.
  2. ^ 阿部 & 西村 1990, p. 238.

参考文献




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