ミゲル・ミノエスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 宗教家 > 宗教家 > キリシタン > ミゲル・ミノエスの意味・解説 

ミゲル・ミノエス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

ミゲル・ミノエス(Miguel Minoes、慶長2年(1597年)- 寛永5年(1628年5月14日)は、17世紀の日本人キリスト教徒。イエズス会司祭

生涯

慶長2年(1597年)、美濃国に生まれたと思われる。

日本追放まで

慶長19年(1614年)、キリシタン追放令によって原マルティノマンショ小西ペトロ・カスイ岐部コンスタンティノ・ドラード(後マカオ修道院長)らとともにマカオに追放される。

ローマ時代

その後マカオのコレジオに学んだが、現地上長の日本人を司祭にしない方針に落胆して海路ローマを目指し、ゴアから喜望峰を経て、ポルトガルに到着。コインブラ大学で学び日本人として初めて哲学の学位を与えられた。さらにローマに渡って元和7年(1621年)10月イエズス会に入会、聖アンドレ修練院に入学。修練院の名簿には美濃国出身でこのとき30歳であったと記される。

司祭時代

その後、寛永3年(1626年ローマ司祭叙階されるが、日本への帰国を果たさぬうち寛永5年(1628年)5月14日、リスボンで死去した。


ミゲル・ミノエス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:02 UTC 版)

「ミゲル・ミノエス」の記事における「ミゲル・ミノエス」の解説

寛永5年1628年5月14日)は、17世紀日本人キリスト教徒イエズス会司祭

※この「ミゲル・ミノエス」の解説は、「ミゲル・ミノエス」の解説の一部です。
「ミゲル・ミノエス」を含む「ミゲル・ミノエス」の記事については、「ミゲル・ミノエス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ミゲル・ミノエス」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミゲル・ミノエス」の関連用語

ミゲル・ミノエスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミゲル・ミノエスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミゲル・ミノエス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのミゲル・ミノエス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS