弘メ質素令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/17 08:56 UTC 版)
弘メは、江戸時代の間、簡素・簡略化して経費節減に努めるように命じる町触が何度も出されている。しかし、実際にはこの法令はほとんど守られず、そのために同じような町触がたびたび出されることになった。 一方で、宝暦9年(1759年)11月の町触では、質素令を何度も出しているのに一向に改善されないことを咎めながら、同時に、土地を含む屋敷の譲渡の際に必要な弘メが省略されがちであることを戒めてもいる。幕府の側では、金をかけて盛大に行うことは禁じながらも、弘メそのものは省略してはならない必須事項と考えていたのである。 なお、宝暦9年に出されたこの町触では、土地を含む屋敷の譲渡に際して配布する弘メ金の金額の上限を定め、名主などの家族へ贈り物をすることや、芝居見物・物見遊山などで饗応することも禁じており、安永2年(1773年)7月に出された「町々町礼音物(ちょうれいいんもつ)質素令」では茶屋などに集まって盛大な「披露宴」を行うことも不埒な行為とされている。 質素令が守られないのは饗応する側の問題だけでなく、受ける側からの要求や、過去の前例、格式などを考慮して行わなければならないといった理由もあった。問屋株仲間への弘メでは既存の加入者から新規加入者へ、前例や加入者の格式を考慮した弘メをするよう申し出がなされることもあり、また安永2年の「町礼音物質素令」では、町内の仕来りだとして町役人自ら規定を無視して過分の町礼や贈答品を要求していることがあると記されている。 屋敷や土地の譲渡・相続には、沽券状(土地権利書)への名主の加判が必要なため、名主の権限が強まり、弘メの際の彼らの要求もエスカレートした。寛文6年(1666年)10月の時点でも、金銭を要求して難渋させる名主がいれば、訴え出るようにという「覚」が出され、宝永3年(1706年)正月には名主による町礼の増額や「芝居又は船遊山(船遊び)」などの振る舞い要求などを禁止する町触も出ており、正徳3年(1713年)8月の町触には名主の妻子への贈り物の要求があったことが触れられ、宝永5年(1708年)の触では家屋敷譲渡の際の弘メ金の規定や音物(いんもつ)・振舞は不要との達しが書かれている。 寛政3年(1791年)4月15日には、町奉行の初鹿野信興が町政全般にわたる全35項目の「定法」を出し、その中で町の経費の節減として、歩一金を100両に2両と改めて規定し、名主や五人組、町中の家持への弘メ金を廃止、音物や振舞は一切禁止している(『撰要永久録』)。
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