弘仁の新羅の賊とは? わかりやすく解説

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弘仁の新羅の賊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:20 UTC 版)

新羅の入寇」の記事における「弘仁の新羅の賊」の解説

弘仁2年811年12月6日新羅船三艘が対馬島西海現れその内の一艘が下県郡佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜流れ行方が分からなくなった。 翌12月7日未明灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人殺害したが、残る五人逃走し、うち四人後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜箇所火光見えると大宰府報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語通訳軍毅等を対馬島派遣し、さらに旧例に准じて要害警備につくすべき事を大宰府管内長門・石見・出雲等の国に通知した弘仁4年813年2月29日肥前五島小近島小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した新羅の賊は島民交戦し島民を9人打ち殺し100人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であったまた、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し帰化を願う者は、慣例により処置せよ指示した事後対策として通訳対馬に置き、商人漂流者帰化難民なりすまして毎年のように来寇する新羅人集団尋問できるようにし、また承和2年835年)には防人330人に増強した承和5年838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐配備した弩師とは、大弓射撃教え教官である。

※この「弘仁の新羅の賊」の解説は、「新羅の入寇」の解説の一部です。
「弘仁の新羅の賊」を含む「新羅の入寇」の記事については、「新羅の入寇」の概要を参照ください。

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