弘仁の新羅の賊
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弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。 翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。 弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民と交戦し、島民を9人打ち殺し100人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。 また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。 事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓の射撃を教える教官である。
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