弘仁新羅の乱
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弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。 帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。[要出典] 乱後処理として弘仁14年(823年)に若くして気鋭の藤原衛が遠江守に任ぜられる。衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったとされる。 承和8年(841年)、新羅海商の張宝高(張保皐)が故国で暗殺される事件が起きた。これを受けて、翌年には新羅人の日本への帰化が停止されることとなった。これは、新羅からの帰化人対策に詳しくなった藤原衛が、新羅との最前線である太宰大弐を勤めていた承和9年(842年)、新羅人の来航・帰化申請の禁止を朝廷に進言したものである。朝議の結果、以後は帰化を申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ、以後の新羅人対策の基本方針になった。これにより、新羅人は民間交易は許されたが鴻臚館への出入りが禁じられ官貿易から締め出される事になった。
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