弘仁新羅の乱とは? わかりやすく解説

弘仁新羅の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:20 UTC 版)

新羅の入寇」の記事における「弘仁新羅の乱」の解説

弘仁11年820年2月13日遠江駿河両国移配した新羅人在留700人が党をなして反乱起こし人民殺害して奥舎を焼いた両国では兵士動員して攻撃したが、制圧できなかった。賊は伊豆国穀物盗み、船に乗って海上出た。しかし、相模・武七国援兵動員され追討した結果全員降服した帰化人には口分田当面生活費与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国違法な交易目論んでおり、それを見透かされ東国移されたことを逆恨みしたもの推定される。[要出典] 乱後処理として弘仁14年823年)に若くして気鋭藤原衛遠江守に任ぜられる。衛は穏やかで落ち着いた統治行い百姓達も喜んだ様子であったとされる承和8年841年)、新羅海商張宝高張保皐)が故国暗殺される事件起きた。これを受けて翌年には新羅人日本への帰化停止されることとなった。これは、新羅からの帰化人対策詳しくなった藤原衛が、新羅との最前線である太宰大弐勤めていた承和9年842年)、新羅人来航帰化申請禁止朝廷進言したものである。朝議結果以後帰化申請してきた場合でも、漂着民に食料衣服与えて追い返すこととされた。これは『貞観格』にも収められ以後新羅人対策基本方針になった。これにより、新羅人民間交易許されたが鴻臚館への出入り禁じられ貿易から締め出されるになった

※この「弘仁新羅の乱」の解説は、「新羅の入寇」の解説の一部です。
「弘仁新羅の乱」を含む「新羅の入寇」の記事については、「新羅の入寇」の概要を参照ください。

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