弘仁二年の征夷とは? わかりやすく解説

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弘仁二年の征夷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「弘仁二年の征夷」の解説

弘仁2年1月11日811年2月7日)、陸奥国志波城拠点として和我郡・縫郡・斯波郡志波三郡が設置された。志波城には移民が行われた形跡がないことから、この三郡は服属した蝦夷編成した蝦夷郡である可能性が高い。2月5日3月3日)、陸奥出羽按察使文室綿麻呂は、6月上旬陸奥国と出羽国の軍士26000人を徴発して爾薩体村と幣伊村征討したいと嵯峨天皇申請した。和我郡・縫郡・斯波郡安定化を図るために北と東に接す爾薩体村と幣伊村征討計画されたものとみられる。綿麻呂3月9日4月5日)、予定していた軍士26000人のうち1万人を減らすことを報告した嵯峨天皇3月20日4月16日)の勅で綿麻呂らの判断理解示しつつも征夷には多数兵力必要なので、先の奏の通り徴発しら兵数減らさないよう指示している。 弘仁2年4月17日811年5月12日)、綿麻呂征夷将軍に、出羽守大伴今人鎮守将軍佐伯耳麻呂陸奥介坂上鷹養の3名が副将軍任命された。現地官人征討使に任ずる点や軍監軍曹人数も多い点は桓武朝二次征討以来方式踏まえているが、綿麻呂この前後を通じて陸奥にいるため京に帰って天皇から節刀受け取った形跡がない。2日後4月19日5月14日)に嵯峨天皇が「国の安危、この一挙に在り」と征夷将軍宛てて勅を発している。「国」とは陸奥国のことであり、征夷という本来国家的な課題陸奥国という一地域問題として扱われている。 弘仁2年7月4日811年7月27日)、綿麻呂らは俘軍1000人を吉弥侯部於夜志閇らに委ねて伊村を討つことを奏上する嵯峨天皇7月14日8月6日)の勅で、副将軍両国司と再三評議して結果書状にて奏上するよう指示した7月29日8月21日)、邑良志閇の降俘である吉弥侯部都留岐が「私たち爾薩体村の夷である伊加古らと、久しく仇怨の関係にあります。今、伊加古らは、練兵して整衆し都母におり、弊伊村の夷を誘って私たち討伐ようとしてます。そこで伏して兵粮請い先に手を打って襲撃しよう思います」と申し出た。そこで出羽国は「賊を以て賊を伐つことは軍国の利」と考え、米100斛を支給したいと申請した9月22日10月12日)、綿麻呂征夷軍を「四道」に分けたところ、輜重兵足りなくなったので陸奥国の軍士1100人を追加徴発することを申請する申請10月4日10月24日付け許可されたが、陸奥国に伝わる前の10月5日10月25日)に綿麻呂突如として戦勝報告提出する戦勝報告受け取った嵯峨天皇10月13日11月2日)に「今月5日奏状見て、残獲稍多く帰降少なからず将軍経略士卒戦功、此において知りぬ」という勅を発して蝦夷」「俘囚」「新獲の夷」のそれぞれについて処置指示している。

※この「弘仁二年の征夷」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「弘仁二年の征夷」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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