弘仁二年の征夷
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「日本の古代東北経営」の記事における「弘仁二年の征夷」の解説
弘仁2年1月11日(811年2月7日)、陸奥国に志波城を拠点として和我郡・薭縫郡・斯波郡の志波三郡が設置された。志波城には移民が行われた形跡がないことから、この三郡は服属した蝦夷を編成した蝦夷郡である可能性が高い。2月5日(3月3日)、陸奥出羽按察使文室綿麻呂は、6月上旬に陸奥国と出羽国の軍士2万6000人を徴発して爾薩体村と幣伊村を征討したいと嵯峨天皇に申請した。和我郡・薭縫郡・斯波郡の安定化を図るために北と東に接する爾薩体村と幣伊村の征討が計画されたものとみられる。綿麻呂は3月9日(4月5日)、予定していた軍士2万6000人のうち1万人を減らすことを報告した。嵯峨天皇は3月20日(4月16日)の勅で綿麻呂らの判断に理解を示しつつも征夷には多数の兵力が必要なので、先の奏の通りに徴発しら兵数を減らさないよう指示している。 弘仁2年4月17日(811年5月12日)、綿麻呂が征夷将軍に、出羽守大伴今人・鎮守将軍佐伯耳麻呂・陸奥介坂上鷹養の3名が副将軍に任命された。現地官人を征討使に任ずる点や軍監・軍曹の人数も多い点は桓武朝二次征討以来の方式を踏まえているが、綿麻呂はこの前後を通じて陸奥にいるため京に帰って天皇から節刀を受け取った形跡がない。2日後の4月19日(5月14日)に嵯峨天皇が「国の安危、この一挙に在り」と征夷将軍に宛てて勅を発している。「国」とは陸奥国のことであり、征夷という本来国家的な課題が陸奥国という一地域の問題として扱われている。 弘仁2年7月4日(811年7月27日)、綿麻呂らは俘軍1000人を吉弥侯部於夜志閇らに委ねて弊伊村を討つことを奏上する。嵯峨天皇は7月14日(8月6日)の勅で、副将軍・両国司と再三評議して、結果を書状にて奏上するよう指示した。7月29日(8月21日)、邑良志閇村の降俘である吉弥侯部都留岐が「私たちは爾薩体村の夷である伊加古らと、久しく仇怨の関係にあります。今、伊加古らは、練兵して整衆し都母村におり、弊伊村の夷を誘って、私たちを討伐しようとしています。そこで伏して兵粮を請い、先に手を打って襲撃しようと思います」と申し出た。そこで出羽国は「賊を以て賊を伐つことは軍国の利」と考え、米100斛を支給したいと申請した。9月22日(10月12日)、綿麻呂は征夷軍を「四道」に分けたところ、輜重兵が足りなくなったので陸奥国の軍士1100人を追加徴発することを申請する。申請は10月4日(10月24日)付けで許可されたが、陸奥国に伝わる前の10月5日(10月25日)に綿麻呂が突如として戦勝報告を提出する。戦勝報告を受け取った嵯峨天皇は10月13日(11月2日)に「今月5日の奏状を見て、残獲稍多く、帰降少なからず。将軍の経略、士卒の戦功、此において知りぬ」という勅を発して「蝦夷」「俘囚」「新獲の夷」のそれぞれについて処置を指示している。
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