桓武朝とは? わかりやすく解説

桓武朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:48 UTC 版)

藤原内麻呂」の記事における「桓武朝」の解説

桓武天皇即位した天応元年781年従五位下叙爵し、翌天応2年782年甲斐守に任ぜられる。内麻呂最初の室で、当時桓武天皇後宮女孺務めていた百済永継が、延暦4年785年)に皇子良岑安世儲けると、内麻呂同年従五位上延暦5年786年正五位上急速に昇進し延暦6年787年)には従四位下に叙せられる。なお、この急速な昇進背景として、百済永継担保として内麻呂桓武天皇の関係を深めた可能性指摘する意見もある。この間、右衛士佐・中衛少将といった武官務める。 のち、右衛士督・内蔵頭刑部卿歴任し延暦13年794年平安京への遷都直後に、参議として公卿列する参議任官時、台閣では藤原南家参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ39歳であったが、まもなく右大臣藤原継縄大納言紀古佐美といった大官や、上席参議であった大中臣諸魚石川真守薨去致仕もあり、延暦17年798年従三位中納言昇進するこの間陰陽頭但馬守・造東大寺長官近衛大将兼帯延暦18年799年)には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都責任者務めた。 桓武朝において内麻呂は後の蔵人所前身ともいうべき勅使所の指導的官人であったと見られる事や、延暦24年805年12月藤原緒嗣菅野真道の間で議論されいわゆる徳政相論」において、前殿桓武天皇の側に侍していた事から見て桓武天皇重要な側近であったらしい。しかし桓武朝ではあくまでも藤原雄友藤原乙叡数多い側近一人過ぎず初期藤原種継末期藤原緒嗣程の寵臣ではなく政治的影響力には限界があったと想定される

※この「桓武朝」の解説は、「藤原内麻呂」の解説の一部です。
「桓武朝」を含む「藤原内麻呂」の記事については、「藤原内麻呂」の概要を参照ください。

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