桓武朝
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桓武天皇が即位した天応元年(781年)従五位下に叙爵し、翌天応2年(782年)甲斐守に任ぜられる。内麻呂の最初の室で、当時桓武天皇の後宮で女孺を務めていた百済永継が、延暦4年(785年)に皇子・良岑安世を儲けると、内麻呂は同年従五位上、延暦5年(786年)正五位上と急速に昇進し、延暦6年(787年)には従四位下に叙せられる。なお、この急速な昇進の背景として、百済永継を担保として内麻呂が桓武天皇の関係を深めた可能性を指摘する意見もある。この間、右衛士佐・中衛少将といった武官を務める。 のち、右衛士督・内蔵頭・刑部卿を歴任し、延暦13年(794年)平安京への遷都の直後に、参議として公卿に列する。参議任官時、台閣では藤原南家の参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ(39歳)であったが、まもなく右大臣・藤原継縄や大納言・紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚・石川真守の薨去・致仕もあり、延暦17年(798年)従三位・中納言に昇進する。この間、陰陽頭・但馬守・造東大寺長官・近衛大将を兼帯。延暦18年(799年)には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者も務めた。 桓武朝において内麻呂は後の蔵人所の前身ともいうべき勅使所の指導的官人であったと見られる事や、延暦24年(805年)12月に藤原緒嗣と菅野真道の間で議論されたいわゆる「徳政相論」において、前殿で桓武天皇の側に侍していた事から見て、桓武天皇の重要な側近であったらしい。しかし桓武朝ではあくまでも、藤原雄友や藤原乙叡ら数多い側近の一人に過ぎず、初期の藤原種継や末期の藤原緒嗣程の寵臣ではなく、政治的影響力には限界があったと想定される。
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