桓温の覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
次に政権を握ったのは西府軍総帥として荊州の軍を率いた桓温であった。桓温の父の桓彝は、王敦・蘇峻の反乱で功績を立てたが、後者の乱の際に戦死している。桓温は345年に荊州刺史になると、当時既に皇室内の内訌で末期状態にあった四川の成漢を攻め、347年にこれを滅ぼす大功を立てた。これにより東晋は江南と蜀を合わせた一大国家となり、また桓温の権力も強大化した。 当時、華北では後趙が覇権を握っていたが、第3代皇帝石虎が崩御すると熾烈な後継者争いが始まり、大混乱の状態にあった。この中で華北における漢人勢力には東晋に帰属を願う者も多かったため、北府の殷浩らは北伐を行なおうとした。この殷浩は桓温とは竹馬の友であったが、桓温同様に軍事力に長けていたことから成漢滅亡で権力を得た桓温に対抗するために擁立されていた人物だった。桓温はこの北伐が失敗することを見抜いて自らは出陣せずに部下を送り、その見立てどおり352年に北伐した殷浩は許昌に至るも武将張遇の反乱により進軍を止められ、姚襄の軍に大敗し、責任を問われて流罪にされ、桓温は殷浩の軍権も掌握するに至った。 その後、桓温は自ら北伐を行ない、湖北から長安にまで攻め入り、さらに東進して洛陽を落としてその帝陵を修復し、356年に凱旋した。これらの武勲により、桓温の権力と権威は東晋において揺るぎないものとなる。一方で桓温は、土断の実施など内政改革にも実力を発揮した。そんな中穆帝が361年に崩御し司馬丕(哀帝)が即位するも、哀帝は365年に崩御し、司馬奕(廃帝)が即位する。一方華北東部に進出した前燕の慕容恪により洛陽が奪われたため、桓温は再び北伐を開始した。桓温は慕容垂の前に大敗し、辛うじて徐州に帰還するが、この大敗で前燕や前秦にかえって南侵されるようになり、桓温の権威と権力は大きく傷ついた。 このため桓温は自らの野望の達成を急いだ。すなわち東晋皇帝からの禅譲による新王朝創設である。その為に廃帝を371年に廃位して海西公に降格させ、司馬昱(簡文帝)を擁立した。簡文帝は翌年に崩御し、その際に桓温への禅譲の意思を示すが、だが桓温の軍府の司馬(副官)であった謝安の反対により結局司馬曜(孝武帝)が即位する。その後も謝安の禅譲引き延ばし工作などもあり実現せず、重病に倒れた桓温は373年に失意のうちに世を去った。
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