桓玄の簒奪と再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
謝安の死後、政権を握ったのは皇弟の司馬道子であった。兄の孝武帝が次第に酒色に溺れて政務に関心を示さなくなったため、司馬道子が実権を握ることになった。ところがこの道子も安楽の生活に溺れて権力を私物化したため、東晋は内部から腐敗と崩壊の道を歩みだした。そして396年には張貴人によって孝武帝が暗殺され、司馬徳宗(安帝)が即位した。 このような政治情勢のため一気に社会不安が高まり、それが399年に五斗米道の指導者孫恩による宗教反乱という形で爆発した(孫恩の乱)。この反乱で建康は危機的状況に陥るが、北府軍の劉牢之と劉裕により鎮圧された。この反乱で東晋皇帝の無力化が露呈し、以後は軍閥に皇帝が左右されるようになる。 この反乱を契機として、桓温の遺児桓玄は孫恩軍鎮圧を名目に西府軍を動かし建康に迫った。司馬道子にはこれを撃退する力はなく、北府の劉牢之を動かして対抗しようとしたが、北府軍は西府軍に味方したため、建康は陥落して司馬道子は殺された。 桓玄は首都に入城して政敵を排除すると、安帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を楚として(桓楚)親子2代にわたる宿願を果たした。一方で桓玄は北府軍を圧迫して劉牢之を自殺に追い込んだため、北府軍の怒りを買った。劉牢之の死後、北府軍のリーダーとなった劉裕は挙兵して桓玄を破って首都を奪回、さらに荊州に逃れて再起を図った桓玄を再び破り、荊州から蜀に逃亡しようとした桓玄を殺害、廃帝となっていた安帝を復位させて東晋を再興した。
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