桓玄の側近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 08:48 UTC 版)
東晋の権力者である桓玄が江州刺史に赴任すると、苻宏は彼と関係を深めてその麾下となった。 399年12月、桓玄と対立していた荊州刺史殷仲堪が配下の殷遹に水軍7千を与えて西の江口へ進ませると、桓玄の命により、苻宏は郭銓と共にこれを撃ち、殷遹らを敗走させた。 その後、桓玄の専横を危惧した朝廷より桓玄討伐の詔が下されると、桓玄は先んじて建康へ向けて軍を発し、苻宏もまたこれに従軍した。 402年2月、桓玄が姑孰へ進出すると、その命により苻宏は馮該・皇甫敷・索元らと共に歴陽を攻めた。襄城郡太守司馬休之は城を固守したので、苻宏らは洞浦を遮断し、豫州の船を焼き払った。豫州刺史譙王司馬尚之(司馬休之の兄)は歩兵9千を率いて浦上まで進出し、さらに武都郡太守楊秋を横江に駐屯させたが、楊秋は桓玄軍に降伏した。これにより司馬尚之の兵は自潰し、司馬尚之もまた泥の中を逃げ去ったが、苻宏らはこれを捕らえた。さらに、決戦を挑んで出撃した司馬休之を返り討ちにし、司馬休之は城を放棄して逃走した。その後、桓玄は建康へ入城を果たすと、国権を完全に掌握した。 403年11月、桓玄は帝位を簒奪して楚帝を称した(桓楚)が、劉裕・劉毅・何無忌はこれに反発して桓玄に反旗を翻した。 404年4月、桓玄は諸軍を率いて舟艦200でもって江陵を発つと、苻宏は梁州刺史に任じられ、軍の前鋒となった。だが、桓玄は反乱軍に敗れ去り、建康を脱出して西へ逃れたところを益州都護馮遷によって殺害された。苻宏は桓玄が敗死した後も、桓玄の余党と結託して交戦を継続した。 405年1月、苻宏は桓振・桓亮らと共に安成・廬陵に侵攻した。劉敬宣は将兵を派遣してこれを討たせると、苻宏は湘中へと逃亡した。3月、苻宏は桓振と共に城を出ると、江陵を強襲してこれを破ったが、沙橋において劉懐粛が繰り出した討伐軍に敗れた。5月、苻宏は桓亮と共に再び湘中へ侵攻し、太守や長吏10数人を殺害した。これを受け、劉毅・劉道規・檀祗らは大々的に苻宏討伐に乗り出し、苻宏は湘東において敗北を喫し、戦死した。
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