光仁から桓武朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 光仁から桓武朝の意味・解説 

光仁から桓武朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 08:43 UTC 版)

藤原園人」の記事における「光仁から桓武朝」の解説

父・麻呂西海道使や国司等を歴任し長く地方行政携わった後、参議昇進して4年後の宝亀7年776年)に薨去した。当時、園人はまだ無位任官していなかったが、父歿から3年後宝亀10年779年従五位下に初叙され美濃介に任ぜられた。 その後延暦2年783年)から延暦4年785年)にかけて一時的に少納言右少弁太政官官房機関官職務めた他は、備中守・安芸守大宰少弐豊後守・大和守と桓武朝前期から中期にかけて長く地方官務めた。園人は百姓立場から仁政をしく良吏であったらしく、国守として赴任した豊後国では、園人の善政遺徳を頌える祠が建てられ大分県日出町大神御霊社現存している。また、大和守の官職にあった延暦18年799年)には、郡司について任務大変な割に外考外位対す考課内位比べて昇進が遅い)扱いで、子孫に対して恩恵を残す事ができず、十分な収益得られない事から、郡司任じて辞退者続出して郡の行政支障来していたため、内考扱いとするよう言上し朝廷より畿内5ヶ国について認められている。 延暦17年798年従四位下・右京大夫叙任され京官兼ねると、のち右大弁大蔵卿要職歴任した

※この「光仁から桓武朝」の解説は、「藤原園人」の解説の一部です。
「光仁から桓武朝」を含む「藤原園人」の記事については、「藤原園人」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「光仁から桓武朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「光仁から桓武朝」の関連用語

光仁から桓武朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



光仁から桓武朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤原園人 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS